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五万掘古道(4)-安侯駅家

 1週間ほど前に書いていた古代の道の続き記事です。

 910年頃になってまとめられた延喜式には、その当時の神社の名前や大きさ、さらに各国を結んでいた街道(官道)に設けられた駅家(うまや)の名前が記されています。

畿内から全国に向かう七道のうち東海道の国に属していた「常陸国」は国府が今の石岡ですから、主要道としては石岡が終点になります。

奈良時代に、それまで人が通っていた道は地形に合わせてくねくね曲がっていたものを、できるだけ平に、直線となるように広い道路を作ることが、それぞれの国に課せられようです。

これは実際に各地で、両側に広い側溝を持った官道と思われる遺跡が発見され、いろいろな憶測を交えながら議論がされ始めています。

しかし、この官道の意味するものがこの五万掘古道のルートを見ていて違って見えてきたのです。

国府石岡から北に伸びるこの古代官道の出発点となっているのは「鹿の子遺跡」と思われます。
鹿の子遺跡は石岡の少し外れにあります。

国府や郡衙(ぐんが)などは恐らくこの常陸国府の中心であり、この奈良時代の始め頃は、まだ東北の蝦夷の脅威に備えていなければならなかったのです。

そのため、この陸奥国の蝦夷への城柵が最初の頃はこのあたりにも設けられたのだと思います。
畿内の回りにも各主要官道に関が設けられました。
それが時代とともに北に移動し、ある程度の大和朝廷の律令制が浸透して来て、その必要性がなくなり、東北地方との境にある「鼠ヶ関」「白河関」「勿来関」の役割が大きくなり、それも次第に北へ北へと小さな城柵が作られて行ったのでしょう。

奈良時代のはじめ頃は、この鹿の子では広大な土地にいくつもの武具や農具などを作る工場群があったのです。
そこではすでに、各種の人口統計や税の台帳なども作られていたようです。

いってみれば武器や食糧の供給基地であり、人馬についても管理がされていたと思われます。

当時の様子をなかなか想像することが困難なのですが、古東海道の道を探求するにはきっとこの時代背景を考えずに推測すると見えるものも見えなくなるように思います。

では鹿の子(常陸国府の官道駅ではなく、軍事拠点)から次の駅は延喜式では「安侯」と書かれています。
これは笠間市(旧岩間町)安居(あご)として地名に残っているあたりだろうと言われています。

この安居という地名もどういう意味なのかはわかりませんが、各地に似た地名があります。

地図で見たら静岡の久能山の麓にも「安居」「根小屋」「古宿」などの地名が並んでいました。
根小屋などは昔の城があった時に家臣などが住んでいたところがその名前で呼ばれているので古いお城の周りによく見かける地名です。

 以前「安居千日堂」を紹介した(こちら)時にも、このあたりに駅家(うまや)があったのだろうかと思いを馳せていたのです。

しかし、今回の五万掘古道で見えてきた場所は、もう少し西寄りで、安居の一番北側涸沼川の手前あたりだと思われます。

安居

上の地図で、笠間市安居はこの涸沼川までです。
丁度川が湾曲した場所に近いところに駅家があったのではないかと思います。(確認されていません)

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しかし、ここの東西にはしる県道(43号)は比較的新しいもので、あたりもこのような畑などが広がり、何もそれらしきものはありません。

ただ、この道沿いの高速道路に近い場所で昔の建物(倉庫?)跡と思われる遺跡が発掘調査で判明しています。(東平遺跡)

少し南下していくと小さな神社「山倉神社」があります。
神社は古墳と思われる小山の上にあります。

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これが神社の入口です。階段を上ると拝殿があり、中には地元の祭りに使われる小さな赤い神輿がありました。
歴史的なものもよくわかりません。

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明らかに古墳の上に建てられた神社だと思います。

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神社の前の通りは、上の写真のように竹林を持つ大きなお屋敷風の家などがあります。

この神社の前の道を少し東側にいったところの交差点を南に行くと岩間インター近くの東大附属農場や県農業総合センターの前に出ます。

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上の写真の正面信号の先の右手こんもりしたところが「山倉神社」です。
左は石岡方面です。

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この信号脇に置かれていた供養塔ですが、追分と兼用だったようで右下に「右」左下に「左」と彫られていて、地名が入っているようなのですが、よく読むことができません。比較的新しいものかもしれません。

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地図に「墨書土器(騎兵長+)」と書かれた場所近くの写真です。

この場所で「騎兵長+」と墨で底の部分に書かれた土師器杯が発見されました。9世紀前半のものだとされます。
この駅家のあたりにもこれらの騎兵が10人単位以上でいたのではないかと推測されます。

鹿の子遺跡などとの関連や、これより西の涸沼川上流にある笠間市土師(はじ)などの地名との関連を知りたくなりますね。

ああ、やっぱりすぐ近く(北西)の「随分附(なむさんづけ)」などとも隣り合っているのだから、これはすべて関連した名前なのかもしれません。(こちらに書いた記事参照ください)

それからこの前も書きましたが、地図に見える長兎路(ながとろ)はこの官道に関係して付けられた名前ではありません。
漢字を基に古い地名を考えては見えるものが見えてきません。同じ読みの長瀞、長戸路、長土呂、長渡呂、長外路などは皆、川沿いにある地名だと思います。

明日は国指定文化財である「塙家住宅」を紹介します。
ここも私にとってはとても興味深いものでした。

塙(はなわ)という地名もたくさんあります。
塙、小塙などみな少し小高い土地についた名前で、これは漢字そのものがその形状に合わせて作られたものです。
この反対は圷(あくつ)なのですが、どうも崖の下という意味合いばかりではないようです。
すべて川沿いの場所についています。

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古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/09 18:33
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