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真壁散歩(4)-真壁城址

 中世の真壁氏の城跡が広大な敷地(約12.5ha)として残っている。
これだけ広大な敷地がそのまま残されているのは全国的にも珍しいのではないかと思う。

平成6年に国指定史跡に登録されたそうだが、この中心であった古城の場所には立派な体育館が建っているが、残りはほとんど手つかずで現在公園としての整備が進められているようだ。

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体育館の近くに置かれている城址石碑。

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石碑の隣にある木柱には「神道霞流剣術発祥の聖地」と書かれています。

この剣術は、ネットで調べてみると、真壁城の第十八代城主真壁久幹によって創始され,その家臣の桜井大隅守吉勝が夢想権之助勝吉に伝授し、現在では神道夢想流杖道の併伝武術の1つとして伝えられている。
と説明がありました。

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この体育館のある台地に稲荷神社が建てられています。

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そしてその脇を少し下りると、堀跡らしき低地とその外側に広大な土塁跡が見られます。

この土塁でぐるりと囲われていますが、後から復元したものが多いようです。

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ここは台地にはなっていますが、山城ではありません。東側一体は筑波山から加波山に続く山並みが続いており、城も後ろに山を背負って建てられたようです。

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この城は承安2年(1172)に常陸大掾であった多気直幹(なおもと)(つくば市北条の多気山に居城)の四男の長幹(ながもと)がこの場所に築城して、真壁氏を名乗ったのに始まるとされる。

その後、本家の北条の多気大掾氏は常陸守護である八田氏の換言(?)で源頼朝から所領を没収され滅びてしまったが、このあとを同族の吉田氏(水戸、馬場氏)が大掾職を継承して石岡の大掾氏と続くことになる。

ここの真壁氏は上杉禅秀の乱(1416年)に鎌倉公方(足利持氏)に当初は味方していたが、途中から小栗満重に味方し、足利持氏派の宍戸満里により滅ぼされてしまう。

この後真壁氏も復権が許されたが、戦国時代には(石岡)片野城の太田三楽斎(佐竹氏の客将)とともに小田氏を手這坂で破ることになる。
そして、石岡市柿岡の「柿岡城」に真壁房幹が入り、家督をそちらに譲ったため、こちらは柿岡の支城のようになったようです。

しかし、佐竹氏が秋田に移ったため、ここにいた真壁氏も家臣を連れ、秋田の角館に移りました。(1602年)

秋田角館は芦名氏が江戸崎から移り町並みを整えました(江戸崎散歩で記事にしています→(こちら)が、ここの真壁氏もこの武家屋敷に住んだことになります。

秋田、茨城は関係が深いですね。

この後徳川時代になってからこの真壁は尾張の浅野長政が家督を子供に譲って、隠居の地としてここ真壁藩5万石をもらって入ることになる。

これが笠間に移り、その後赤穂に移って赤穂浪士の事件となります。

しかし、笠間に移ったあと、笠間藩の陣屋がここにもできますが、この場所はこの城の場所ではなく、今も江戸の屋敷並木が残る真壁の伝承館のあるあたりとなるようです。


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土塁は二重に張り巡らされていたようで、堀跡などもわかる。

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このようにないも手をつけられずに残るものだろうか?・・・どうやら土塁は復元されたもののようだ。

向こうに見えるのは筑波山です。


真壁散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/05/23 19:30
コメント
土塁
おはようございます。
多少の復元はあるにしても、広大な城跡、長大な土塁が残されているのは驚きです。
余計なお世話ですが、夏草の時期の草刈りが心配です。それに、巨大な看板も?
やや さん
いつもありがとうございます。

> 多少の復元はあるにしても、広大な城跡、長大な土塁が残されているのは驚きです。

普通は山の中なら木々が生い茂ったところに残されますし、平地なら家が建ったりしますので
このように残されるのは希なんだと思います。
中世の城は派手さはないけど昔の暮らしていた百姓屋武士の姿を思い起こさせてくれますね。

> 余計なお世話ですが、夏草の時期の草刈りが心配です。それに、巨大な看板も?

確かに草刈は大変ですね。これはもう少し整備が必要ですね。
今はこの草原をハングライダーが着陸するにはいい場所になっているようです。
看板も「国指定」をアピールする狙いもありそうです。
でもこの看板はあまり主要の道路ではない方に向いていますので気がつかないですよ。
ハングライダーの着陸場所の目印??かも。

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