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真壁散歩(5)-白壁と真壁

 真壁(茨城県桜川市真壁町)散歩の記事の続きです。

真壁はひな祭りと江戸時代の武家屋敷などが残る石(花崗岩)の街として知られます。

 この真壁という名前は、奈良時代にはここに「白壁郡」が置かれたが、この白壁という名前が「白壁王」と言われた「光仁(こうにん)天皇」(藤原氏が担いで晩年になって天皇になった)がおり、後にこの白壁はまずいだろうということになり名前を「真壁」に改めたという。

真壁の伝承館の歴史館に置かれていたパンフレットによれば、この白壁郡という名前の前に「雄略天皇の子、清寧天皇の御名代として白髪部をおく」とあり、これが白壁、真壁の起源であると書かれていました。

奈良朝になる前まではこの地は新治郡で、710年の奈良時代になり常陸国に十一郡が置かれて、白壁郡ができたようです。
そして785年に白壁郡を真壁郡に改称したとなっていました。

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さて、奈良時代にあった白壁郡という郡は、筑波山の西側麓一帯をさして呼んだらしい。

合併前で言えば明野町やこの真壁町あたりだ。

その時の郡衙(ぐんが)はこの真壁城跡あたりにあったようだ。

 しかし今から1300年前に書かれた「常陸国風土記」には、この白壁郡のことには触れられていない。
まあ郡となって新しいので新治郡と同じようにみなされていたのかもしれない。

 この新治郡は、昔の協和町(新治駅)近くに郡衙(こちらの記事参照)中心があったとされる。

風土記には、当時の新治郡には面白い記述がある。

「昔、美麻貴の天皇(崇神天皇)の天の下知ろし食しし御世に、東国の荒ぶる賊たちを言向けようと、新治の国造の祖先となったひならすの命を遣はした。ひならすの命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。新しい井を治(は)ったことから、新治の名がついた。諺に「白遠(しらとほ)ふ新治の国」といふ。この井戸は今も新治の里にあり、季節ごとに祭が行なはれる。

 郡家(郡庁)より東五十里のところに、笠間(かさま)の村がある。村へ通ふには葦穂山(あしほ やま)を越えねばならない。葦穂山には昔、油置売(あぶらおきめ)の命といふ山の主(山姥)がゐた。今は森の中の社の石屋に眠ってゐる。こんな俗謡もある。

 言痛(こちた)けば をはつせ山の 石城にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)

(もし人に知られて辛くされたら、小初瀬山の石室にともに眠らねばならない。だから気持ちを押さへてくれ、私の恋人よ。)」(口訳・常陸国風土記より)

この「油置売命」は山賊と書かれたりしているが、この時代では蝦夷人で、書き方からすると老婆が、この芦穂山(現足尾山)の岩穴に住み着いていたと書かれていると解釈できる。

新治郡の郡衙からこの足尾山を越えて笠間の村に行くと書かれている。
今では新治駅から国道50号線(または水戸線で)を東に20kmで山越えはない。

しかし、当時はこの芦穂山を越えたという。

笠間というのもこの頃の村は来栖(くるす)(=栗栖)あたりをさしていたものか?

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 もう一つ、「諺に「白遠(しらとほ)ふ新治の国」といふ」という表現だが、この「白遠(しらとほ)ふ」という言葉の解釈がいろいろである。
まあ「枕ことば」のようなものだと解釈されるのだが、やはりこの白壁郡(白髪)とともに気になる。

さて、前に「志筑の田井(しづくのたい)」について書いているが、(こちら1こちら2こちら3)これは万葉集に高橋虫麻呂として歌が載っている。

筑波山に登れる歌
草枕 旅の憂へを 慰(なぐさ)もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひはり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も
秋風に 白波(しらなみ)立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日に 思ひ積み来(こ)し 憂へはやみぬ

ここにも「白波立ちぬ」となっている。
真壁は花崗岩が昔から豊富で見た目でも白く見えたのだろうか?

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上の写真はすべて真壁城跡の広大な草原から筑波山などの山並みを眺めたものだ。

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真壁散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/25 19:38
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