真壁散歩(6)-伝正寺
実は真壁で最も有名なのは昔なら、この伝正寺かもしれない。
「どっこい真壁の伝正寺(でんしょうじ)」と言われたいう。
曹洞宗天目山伝正寺は文永五年(1268年)に真壁城主真壁時幹により開山したと言われます。
これには昔に教科書にも載る話が伝わっています。
城主時幹の下僕であった「平四郎」が雪の日に主人の草履を懐で温め、主人の前に出したのです。太閤記なら秀吉は出世するきっかけとなるのですが、この時の主人時幹は、草履が暖かいのは平四郎が自分の尻の下に敷いていたためだと思い込み、激しく叱責したといいます。
このため、平四郎はこの地をさり京にのぼり、中国へ渡り修行をして立派な僧侶(禅宗)となって日本に戻ってきました。そして亀山天皇から「法身国師」の号を送られ、鎌倉5代将軍北条時頼はそれまで天台宗であった松島瑞巌寺(当時は円福寺)の僧を追い出して、この平四郎(法身)を住職に据えたのです。
その後、法身(平四郎)は数年後に松島をさり、真壁に戻ってきたのです。
時幹はえらい僧侶の法身が城下に来ている事を知り、呼び寄せました。
そして事のいきさつを知り、今までの非道を詫び平四郎のために「臨済宗照明寺」という寺を建立しました。
これが今の伝正寺になったといいます。
さて、この話は時幹が法身を招いた時に、法身は
「私をご存知ありませんか? 昔、下僕をしていた平四郎です。私はあなた様の叱責を受けて、こうして修行をして今があります。もしあのことがなかったなら、今も下僕のままだったでしょう。そのような機会を頂いたあなた様を恨むなんてとんでもないです。とても感謝しているのです。」と・・・・
その後、康正二年(1456年)相模国の海蔵寺住職安叟宗楞禅師がこの地に来て、臨済宗は曹洞宗に改宗されましたた。
この平四郎(法身国師)は、文治五年(1189)、現在の筑西市猫島の高松家の生まれと伝えられているそうです。
この猫島と聞くと思い出すことがあります。
そう、陰陽師の安倍晴明の出生地とも言われる所なんです。何か不思議な気がします。
さて、この寺をさらに有名にしているのは、実は真壁氏は徳川の時代になって佐竹氏について秋田角館に移りました。
そして、関ヶ原で功績のあった浅野長政が和歌山城をもらうことになりますが、この和歌山を息子に譲って、自分は隠居の身となりました。それを知った家康がここ真壁を長政に譲ったのです。
そして真壁藩5万石が誕生しました。この浅野長政がこの伝正寺を浅野家の菩提寺にしたのです。
ですから長政の墓もここにあります。そのためあの赤穂の浅野家の菩提寺でもあるのです。
赤穂浪士の中には、親の代などがここ真壁の出身であったり、笠間の出身である浪士がたくさんいました。
そのため、ここにも四十七士の墓も作られていると聞いてきたのですが・・・・。

上の写真は上り坂の正面が伝正寺です。裏の山が天目山でしょうか。

行ってみて驚きました。入口山門は荒れ放題で、中に入ることもできません。

寺は大幅な改築工事をしているようで、見学もできません。
それにしても草ぼうぼうではこの寺の先行きは怪しいものがあります。

寺の境内の庭園や造園された樹木などはすっかり壊され、全面的に作り直されているようです。
少し中に入って写真を遠くから撮りましたが、工事に方に怒られてしまいました。

少し上の墓所の方に行く途中から寺を眺めましたが、この先どのようになるのか皆目わかりません。

この伝正寺からの眺めは素晴らしかったようで、昭和25年選定の茨城百景には「伝正寺と加波足尾」(真壁城址,加波山神社)が選定されています。
ここの寺の前に温泉旅館「桜井館」という施設があります。
もう何十年も前に、一度温泉(鉱泉)に日帰りで昼間に訪れたことがあります。
昔、芥川龍之介などの文豪も泊まった宿だそうで、由緒があるというので行ってみたのですが、真壁石の浴槽が2つあり、いかにも田舎の宿という感じの施設でした。
今の人から見たら驚くような田舎風の宿で、釣り人などが泊まる山小屋のような感じでした。
一人の場合は少し広い女湯に案内されますし、ご夫婦なら一緒にどうぞと言われます。
沸かし湯ですので節約の意味合いもあるのかもしれません。
ほかに客はなく、風呂から上がると宿の女主人が、広間で熱めのお茶を入れてくれたことが忘れられない思い出として残っています。

その山のいで湯的な「桜井館」も全面リニューアル中でした。立派なきれいな旅館かホテルに生まれ変わるのかもしれません。
個人的には山のいで湯的なのどかな宿の方が好きですが、まあ泊まりに来ることはこれからもほとんどないでしょう。
日帰り温泉施設として甦ればまた来ることもありそうです。
(昔の温泉の浴槽と壁絵の写真)
「どっこい真壁の伝正寺(でんしょうじ)」と言われたいう。
曹洞宗天目山伝正寺は文永五年(1268年)に真壁城主真壁時幹により開山したと言われます。
これには昔に教科書にも載る話が伝わっています。
城主時幹の下僕であった「平四郎」が雪の日に主人の草履を懐で温め、主人の前に出したのです。太閤記なら秀吉は出世するきっかけとなるのですが、この時の主人時幹は、草履が暖かいのは平四郎が自分の尻の下に敷いていたためだと思い込み、激しく叱責したといいます。
このため、平四郎はこの地をさり京にのぼり、中国へ渡り修行をして立派な僧侶(禅宗)となって日本に戻ってきました。そして亀山天皇から「法身国師」の号を送られ、鎌倉5代将軍北条時頼はそれまで天台宗であった松島瑞巌寺(当時は円福寺)の僧を追い出して、この平四郎(法身)を住職に据えたのです。
その後、法身(平四郎)は数年後に松島をさり、真壁に戻ってきたのです。
時幹はえらい僧侶の法身が城下に来ている事を知り、呼び寄せました。
そして事のいきさつを知り、今までの非道を詫び平四郎のために「臨済宗照明寺」という寺を建立しました。
これが今の伝正寺になったといいます。
さて、この話は時幹が法身を招いた時に、法身は
「私をご存知ありませんか? 昔、下僕をしていた平四郎です。私はあなた様の叱責を受けて、こうして修行をして今があります。もしあのことがなかったなら、今も下僕のままだったでしょう。そのような機会を頂いたあなた様を恨むなんてとんでもないです。とても感謝しているのです。」と・・・・
その後、康正二年(1456年)相模国の海蔵寺住職安叟宗楞禅師がこの地に来て、臨済宗は曹洞宗に改宗されましたた。
この平四郎(法身国師)は、文治五年(1189)、現在の筑西市猫島の高松家の生まれと伝えられているそうです。
この猫島と聞くと思い出すことがあります。
そう、陰陽師の安倍晴明の出生地とも言われる所なんです。何か不思議な気がします。
さて、この寺をさらに有名にしているのは、実は真壁氏は徳川の時代になって佐竹氏について秋田角館に移りました。
そして、関ヶ原で功績のあった浅野長政が和歌山城をもらうことになりますが、この和歌山を息子に譲って、自分は隠居の身となりました。それを知った家康がここ真壁を長政に譲ったのです。
そして真壁藩5万石が誕生しました。この浅野長政がこの伝正寺を浅野家の菩提寺にしたのです。
ですから長政の墓もここにあります。そのためあの赤穂の浅野家の菩提寺でもあるのです。
赤穂浪士の中には、親の代などがここ真壁の出身であったり、笠間の出身である浪士がたくさんいました。
そのため、ここにも四十七士の墓も作られていると聞いてきたのですが・・・・。

上の写真は上り坂の正面が伝正寺です。裏の山が天目山でしょうか。

行ってみて驚きました。入口山門は荒れ放題で、中に入ることもできません。

寺は大幅な改築工事をしているようで、見学もできません。
それにしても草ぼうぼうではこの寺の先行きは怪しいものがあります。

寺の境内の庭園や造園された樹木などはすっかり壊され、全面的に作り直されているようです。
少し中に入って写真を遠くから撮りましたが、工事に方に怒られてしまいました。

少し上の墓所の方に行く途中から寺を眺めましたが、この先どのようになるのか皆目わかりません。

この伝正寺からの眺めは素晴らしかったようで、昭和25年選定の茨城百景には「伝正寺と加波足尾」(真壁城址,加波山神社)が選定されています。
ここの寺の前に温泉旅館「桜井館」という施設があります。
もう何十年も前に、一度温泉(鉱泉)に日帰りで昼間に訪れたことがあります。
昔、芥川龍之介などの文豪も泊まった宿だそうで、由緒があるというので行ってみたのですが、真壁石の浴槽が2つあり、いかにも田舎の宿という感じの施設でした。
今の人から見たら驚くような田舎風の宿で、釣り人などが泊まる山小屋のような感じでした。
一人の場合は少し広い女湯に案内されますし、ご夫婦なら一緒にどうぞと言われます。
沸かし湯ですので節約の意味合いもあるのかもしれません。
ほかに客はなく、風呂から上がると宿の女主人が、広間で熱めのお茶を入れてくれたことが忘れられない思い出として残っています。

その山のいで湯的な「桜井館」も全面リニューアル中でした。立派なきれいな旅館かホテルに生まれ変わるのかもしれません。
個人的には山のいで湯的なのどかな宿の方が好きですが、まあ泊まりに来ることはこれからもほとんどないでしょう。
日帰り温泉施設として甦ればまた来ることもありそうです。

伝正寺全面改装しているんですか。地震の前に真壁の雛祭りに行ったとき寄りました。草ぼうぼうで本堂はぼろぼろ。あちこちに立ち入り禁止の看板がありました。ブログにも載せましたが、この寺大丈夫なんだろうかと心配しました。理由はどうあれ改装して、少しでもいい感じになってくれればいいですね。
troyさんの記事も少し覚えています。
確かに草ぼうぼうでしたが、本堂などは立て直しているのではないかと思います。
檀家の人しか中には入れないのでよくはわからないのですが、全く変わってしまうかもしれませんね。
まあ、草だらけで荒れ果てるよりはずっといいですよね。
綺麗になったらまた行ってみたいと思います。
伝正寺の名前は知ってましたが、由来に関しては全く無知でした
震災で崩れたのでしょうか、にしても荒れ過ぎですね。
やっぱり茨城県は文化財に対する心構えがなってない(笑)
伝正寺温泉桜井館は昔、立ち寄ったことがあります。日帰り入浴のお客が私一人だけだったんで、入浴中ちょっと不気味でした^^;
私が知ってる桜井館は平屋の趣ある建物だったのに、随分とイメージが変わってしまいましたね
伝正寺は浅野家の菩提寺で大切なところなんですが、驚きました。
しかし大きく改装していたようですし、大きな石で石垣を作ったりしていました。
来年にはきっと綺麗になっているように思います。
> 伝正寺の名前は知ってましたが、由来に関しては全く無知でした
この話は面白いですよね。あの有名な瑞巌寺と関わっているのですから。
瑞巌寺を調べてもこの僧「法身」についてはよくわかりませんでした。
きっと真壁の人だったことは間違っていないのかもしれません。
> 伝正寺温泉桜井館は昔、立ち寄ったことがあります。日帰り入浴のお客が私一人だけだったんで、入浴中ちょっと不気味でした^^;
> 私が知ってる桜井館は平屋の趣ある建物だったのに、随分とイメージが変わってしまいましたね
そうそう平屋の建物でしたね。女性一人だと少し怖いでしょう。
温泉というには少しイメージが違いましたね。きっとこれから綺麗になるのでしょう。
このきじは今から8年ほど前に書いたので、今は寺も旅館もきれいになっているだろうと思います。
確かに此の頃に聞いた話でも。遠足に子供たちが昔は来ていたなどと話される地元の方がおりました。
歴史のある寺ですので是非大事の守って、開放出来るところはぜひ公開してほしいですね。
真壁はひな祭りでたくさんのお客さんが集り、素敵な町ですよね。
また真壁城跡が国の史跡に登録され、整備も進んで来ました。
伝承館もすばらしいです。
交通の便は良くありませんがとても好きな町です。今書いていますが、将門の伝承や、菅原道真の墓伝承など古くから栄えた土地だったようです。
これからも時々我がブログにお越しくださいね。
伝正寺が浅野夫妻の石像を廃棄すると言い出した為、これを知り、慌てた地元石工たちが、現在の役場敷地に移動させたそうです
この石像は、戦前に地元の名石工 稲田亀吉らが手がけた傑作です
その歴史的価値、技術的価値は非常に高いです
この価値を知る地元石工が石像を保護した訳です
伝正寺は、現在部外者以外の立ち入りを禁止しています
歴代の浅野家の菩提はどうなっているんでしょうか?
コメントありがとうございます。
こちらの石像はまだ拝見していません。
今度行ったときに見てみたいと思います。
伝正寺も久しく訪れていませんが今はどんなになっているのでしょうね。
真壁の歴史がどこかで泣いているような気になります。
石岡と結ぶトンネルもつながったとか。
開通までにはまだしばらくかかるのでしょうが、車なら大分行きやすくなりますね。
ただ、トンネル構造は朝日トンネルと同じの様でしたので自転車が通るには少し厳しそうですね。
最初に決めた構造の変更はなかなか動きませんでした。残念です。