真壁散歩(9)-羽鳥天神塚古墳
真壁の散歩シリーズで古代を考える上でどうしても1度行ってみたかった場所がこの羽鳥天神塚古墳です。
桃山中学校の通りの反対側(山側)だと調べていたので、羽鳥地区にいけば場所はわかるだろうと考えていたのですが、それらしきものがありません。
そしてまた出直しました。
まあ、時間のロスは多いですが、新たな発見も逆に増えます。間違って知らない道を何度もウロウロすると見えなかったものが見えてくることもあります。
昔の人は歩いていたのですから、その気持ちも少し分からなければ(やせ我慢?)

この羽鳥天神塚古墳は上の写真のように上に1本の大きな木があり、小さな祠があるだけの比較的小さな円墳です。

少しカメラを引いてみると筑波山がバックに綺麗に見える場所です。

周りは夏草が覆い、道がよくわからないくらいです。
古墳の麓によく読み取れないくらいになった「羽鳥天神塚古墳」の文字が書かれた木のポールがたっています。
そして石段が上までついています。
上に小さな祠が置かれているだけです。

場所がわからなかったのは、通りの方から見るとこの工場の影になって見えないのです。
この工場は柿沼製粉というこのあたりのお蕎麦屋さんでは知らない人はいないと思われるそば粉の製粉をやっている工場で、ここは第二工場です。
この手前の分かれ道に昨日の記事にある「筑波登山本道」という追分石碑が置かれています。
さて、なぜこんな変哲もない藪の中の古墳に行ってみたいと思ったのかというと、ここに「菅原道真公のお墓」があったと言われているからなのです。
菅原道真を知らない人は少ないと思いますが、九州太宰府に流されその地で亡くなったとされますが、死後いろいろの天変地異がこの菅原道真の起こしたことだと噂が流れます。
そのため、朝廷は祟を恐れて天満宮に祀り、学問の神様として多くの方に親しまれるようになりました。
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春 な忘れそ」
あまりにも有名ですよね。
ではなぜこのように離れた地に墓があったと言われるのでしょうか?
一般には道真は奈良市菅原町近くで生まれ、太宰府で59歳で死んでその地に葬られたと言われまています。
そこが有名な太宰府天満宮です。
では少しだけこの真壁との関わりを調べた範囲で紹介します。
平将門は太宰府で道真が死んだ903年に生まれたと言われます。このため、将門には道真の生まれ変わりであるとの噂がついてまわります。
平家の祖は平国香であるとして、石岡でも大掾氏の祖先を国香としていますが、この国香の弟には「良将=良持」「良兼」「良文」「良正」がおりますが、この「良持(良将)」の子供が将門です。
この将門の父「良持」が茨城県豊田郡(旧石下町)近くで館を構えていました。
一方菅原道真の三男の菅原景行(かげつら)も駿河に左遷されていたのですが、放免になり、その後常陸介として常陸にやってきたとされています。
そして、この良持の館に近いこの真壁の羽鳥地区に館を建てたのです。
将門との関係ですが、学問の神とも言われる道真の子である菅原景行もやはりその才能は優れたものでした。
このため、将門はこの景行を師と仰いで、学問を習ったとも言われています。
しかし、この年代の人たちの生まれも諸説あり、お互いに交流があったのかも定かではありません。
延長4年(926年)に景行は将門の叔父・良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。
そして、これが全国の天満宮の最初とされています。
しかしながら、この天満宮はその3年後の延長7年2月25日に常総市(旧水海道市)大生郷に移転しました。
将門が都から下総国に戻ったのは延長8年(930年)であり、この地の天満宮が大生に移ったのはその前の年になるのです。それを考えるとどのような接点があったのかは疑問が残ります。
また、景行の生まれが867年とされていますが、下総守と常陸介と合わせた在任期間は24年間とされるようです。しかし、詳しくはわかりません。まあ後からいろいろ尾ヒレがついてきても不思議ではありませんね。
この大生郷の天満宮にこの記録が残されているそうです。
そして大生天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神といわれているのだそうです。
(この3箇所に道真の遺骨があるとされる)
そして、この古墳は道真の三男の景行が926年に道真の遺骨を埋めたとされているのです。
遺骨は3年後の神社の移転に合わせて移したということのようですが、真相は定かではありません。
やはり、国府のあった石岡から筑波山の反対側に来ると見える景色がずいぶん違います。
出てくる人物も違って、面白いですね。
常総市の大生郷天満宮のある場所は、昔「菅原村」と言われていました。
この神社も「菅原神社」と呼ばれていました。
その後、水海道市になり、今は常総市です。
ただ、この土地の菅原というのは今も残っていて、菅原小学校などがあります。
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桃山中学校の通りの反対側(山側)だと調べていたので、羽鳥地区にいけば場所はわかるだろうと考えていたのですが、それらしきものがありません。
そしてまた出直しました。
まあ、時間のロスは多いですが、新たな発見も逆に増えます。間違って知らない道を何度もウロウロすると見えなかったものが見えてくることもあります。
昔の人は歩いていたのですから、その気持ちも少し分からなければ(やせ我慢?)

この羽鳥天神塚古墳は上の写真のように上に1本の大きな木があり、小さな祠があるだけの比較的小さな円墳です。

少しカメラを引いてみると筑波山がバックに綺麗に見える場所です。

周りは夏草が覆い、道がよくわからないくらいです。
古墳の麓によく読み取れないくらいになった「羽鳥天神塚古墳」の文字が書かれた木のポールがたっています。
そして石段が上までついています。
上に小さな祠が置かれているだけです。

場所がわからなかったのは、通りの方から見るとこの工場の影になって見えないのです。
この工場は柿沼製粉というこのあたりのお蕎麦屋さんでは知らない人はいないと思われるそば粉の製粉をやっている工場で、ここは第二工場です。
この手前の分かれ道に昨日の記事にある「筑波登山本道」という追分石碑が置かれています。
さて、なぜこんな変哲もない藪の中の古墳に行ってみたいと思ったのかというと、ここに「菅原道真公のお墓」があったと言われているからなのです。
菅原道真を知らない人は少ないと思いますが、九州太宰府に流されその地で亡くなったとされますが、死後いろいろの天変地異がこの菅原道真の起こしたことだと噂が流れます。
そのため、朝廷は祟を恐れて天満宮に祀り、学問の神様として多くの方に親しまれるようになりました。
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春 な忘れそ」
あまりにも有名ですよね。
ではなぜこのように離れた地に墓があったと言われるのでしょうか?
一般には道真は奈良市菅原町近くで生まれ、太宰府で59歳で死んでその地に葬られたと言われまています。
そこが有名な太宰府天満宮です。
では少しだけこの真壁との関わりを調べた範囲で紹介します。
平将門は太宰府で道真が死んだ903年に生まれたと言われます。このため、将門には道真の生まれ変わりであるとの噂がついてまわります。
平家の祖は平国香であるとして、石岡でも大掾氏の祖先を国香としていますが、この国香の弟には「良将=良持」「良兼」「良文」「良正」がおりますが、この「良持(良将)」の子供が将門です。
この将門の父「良持」が茨城県豊田郡(旧石下町)近くで館を構えていました。
一方菅原道真の三男の菅原景行(かげつら)も駿河に左遷されていたのですが、放免になり、その後常陸介として常陸にやってきたとされています。
そして、この良持の館に近いこの真壁の羽鳥地区に館を建てたのです。
将門との関係ですが、学問の神とも言われる道真の子である菅原景行もやはりその才能は優れたものでした。
このため、将門はこの景行を師と仰いで、学問を習ったとも言われています。
しかし、この年代の人たちの生まれも諸説あり、お互いに交流があったのかも定かではありません。
延長4年(926年)に景行は将門の叔父・良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。
そして、これが全国の天満宮の最初とされています。
しかしながら、この天満宮はその3年後の延長7年2月25日に常総市(旧水海道市)大生郷に移転しました。
将門が都から下総国に戻ったのは延長8年(930年)であり、この地の天満宮が大生に移ったのはその前の年になるのです。それを考えるとどのような接点があったのかは疑問が残ります。
また、景行の生まれが867年とされていますが、下総守と常陸介と合わせた在任期間は24年間とされるようです。しかし、詳しくはわかりません。まあ後からいろいろ尾ヒレがついてきても不思議ではありませんね。
この大生郷の天満宮にこの記録が残されているそうです。
そして大生天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神といわれているのだそうです。
(この3箇所に道真の遺骨があるとされる)
そして、この古墳は道真の三男の景行が926年に道真の遺骨を埋めたとされているのです。
遺骨は3年後の神社の移転に合わせて移したということのようですが、真相は定かではありません。
やはり、国府のあった石岡から筑波山の反対側に来ると見える景色がずいぶん違います。
出てくる人物も違って、面白いですね。
常総市の大生郷天満宮のある場所は、昔「菅原村」と言われていました。
この神社も「菅原神社」と呼ばれていました。
その後、水海道市になり、今は常総市です。
ただ、この土地の菅原というのは今も残っていて、菅原小学校などがあります。


こんな古墳があるんですか。知りませんでした。
ただ調べたら6,7世紀の築造となってます。菅原道真とはちょっと時期が違うと思います。
Romanさんの記事は私のような歴史好きにはたまらない話が多くていつもたのしみです。これからもこういう話よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
> こんな古墳があるんですか。知りませんでした。
> ただ調べたら6,7世紀の築造となってます。菅原道真とはちょっと時期が違うと思います。
この古墳そのものは道真の古墳ではないようですね。
この場所に菅原天満宮を建てて、この古墳に道真の遺骨の一部を3年間埋めていたとされているのでしょう。
でも茨城も隠れていることが多いですね。
こんど大生郷天満宮にも行ってみたいと思いました。
> Romanさんの記事は私のような歴史好きにはたまらない話が多くていつもたのしみです。
ありがとうございます。最近記事が別な方向にそれていますね。
反省しなければ・・・。なんとか楽しんでもらえる記事も頑張りますね。