真壁散歩(21)-峠道

 真壁の街は中世には真壁氏の城があったが、江戸時代になったときは真壁氏は秋田角館に移った。
そしてしばらくの間は幕府の直轄領として領主はいなかった。

豊臣5奉行の筆頭であった浅野長政(ねねの妹が長政の妻)は関ヶ原では徳川方で功績を残し、和歌山37万石をもらったがこれを息子に譲って隠居の身になって江戸にいた。
それを家康がこの真壁5万石が空いているというので、ここを長政に譲り、1606年に真壁藩5万石が誕生した。

まあこの真壁は長政にとっては隠居料でもらったものだが、この地を愛で1611年に65歳で亡くなった。
墓は先日紹介した「伝正寺」にある。

長政の跡を三男の長重が継いだ。この長重も大坂の陣などでも活躍し、家康より別な場所への加増の命を受けた。
普通は喜んで受けるところだが、この真壁には父長政が眠っているということで、真壁から離れることを望まなかった。
家康はこのことを知り、笠間をこの長重に譲り、真壁と合わせて5万3千500石とわずかな加増にとどめて希望を叶えた。(1622年)

浅野長重は笠間城に移ったが、この真壁には陣屋をおき、行き来していたという。

この長重も1632年に45歳で死去し、父長政と同じ真壁の伝正寺に葬られた。

笠間浅野家は長重の長男の浅井長直が継いだ。

笠間藩では笠間の城が山の上にあったため、街中に住んでいた家臣たちはこの山(佐白山)に毎日登城するのが不便であった。
このため、山の下の街に近い麓に館を建てた。

しかし、この館を二つの城を持ったのではないかと疑われ、1645年に赤穂に転封となってしまった。
(まあ、この赤穂に移ったのはこれが原因かどうかは諸説あって、実際は色々な要素が重なったようだし、赤穂も5万3千石である。)

有名な赤穂浪士の殿中事件は1701年で赤穂の浅野家3代目の浅野内匠頭長矩の時だが、家臣の多くは笠間や真壁から移り住んだ子孫が多くいた。

大内蔵之介の大石家も浅野長重(真壁藩)の時に浅野家の永代家老となって続いており、蔵之介は1659年に赤穂で生まれている。

この家老大石家の跡地が笠間の日動画廊の近くに残されている。

浅野家が赤穂に移ってからは、真壁は完全に笠間藩の一部として、近江商人なども活躍する街として発展したが今も残る古い建物や蔵などの多くの登録文化財を有する街となっている。


さて今日はこの真壁と石岡をつなぐ山越えの道の話です。

石岡と真壁を結ぶ峠道は「上曽峠」と「湯袋峠」の2本の道がある。

奈良・平安の時代にはどうやら石岡(常陸国府)と結ぶ道は十三塚の手前から杉線香やゆりの郷方面から山越えする「湯袋峠」道だったそうだ。

しかし、その後は今は県道7号線が通る柿岡から真っすぐに上曽峠を越えていく道が主流になったのだと思う。
真壁氏の居城、墓などもこの道に近い。

真壁から江戸に荷物を運ぶのはどのようにしたのだろうか?

真壁の街に来ての説明にはあまりはっきりしたことは書かれていない。

しかし、陸で運ぶよりも水運の方がかなり発達していたことを考えると、多くの荷がこの峠を越えて柿岡まで馬で運び、そこから恋瀬川を通って霞ヶ浦、利根川を経由して江戸に運んだのではないかと想像している。

IMG_7251s.jpg

県道7号線を石岡市柿岡の宿場を過ぎ、西に向かうと、筑波山から加波山に連なる山並みが迫ってくる。

IMG_7250s.jpg

そして、筑波山は山の影に見えるようになると、上曽の宿場で足尾山などにもこちら側から登ったようだ。

IMG_7318s.jpg

まっすぐ山道を登ると上曽峠手前で峰寺山西光院への道を左手に別れ、峠に到着するとすぐに真壁の街に下っていく。

しばらく山道を下り、家が見え始めたところに、「水分神」と「馬頭尊」の大きな石碑が置かれていた。


IMG_7319s.jpg

まあ馬頭尊はこの他にも近くに昔のものもあったので、やはり馬に荷を積んで馬子が手綱をひいてこの峠道を柿岡まで運んだのだろう。

それより、峠の頂上より大分下った場所に「分水嶺」のような「水分神」というものが置かれているのだろう。

この近くでみずのながれが変わっているのだろうか?

川も確かにあったがここで流れが変わるようには見えない。
しかし川の流れはこれより上流では確認できないのかもしれない。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

真壁散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/27 18:06
コメント
すごいものです
お晩です、Romanさん。
今回の記事などを読むと、改めて真壁の歴史の
重みをひしひしと感じます。浅野長政がこの地に
隠居で居たなんて、
その後、浅野内匠頭につながっていくとは、、、
1年ほど前に泉岳寺に行ったのを思い出しました。
そういえば、今の徳川家の当主は松平容保の子孫らしいですもね。
水運は江戸時代はメインですね。
小名木川を見る度に人工的にこんな川を作った
徳川家康を尊敬したりします。
またお邪魔します。
kozoh55さん
いつもありがとうございます。

> 今回の記事などを読むと、改めて真壁の歴史の重みをひしひしと感じます。
> 浅野長政がこの地に隠居で居たなんて、

そうですね。
私も調べてみるまでわからなかったし、部分部分知ってはいてもつながっていなかったのですが、
わかり始めるといろいろな事がつながってきます。

> 水運は江戸時代はメインですね。
> 小名木川を見る度に人工的にこんな川を作った
> 徳川家康を尊敬したりします。

小名木川や行徳川(船堀川)などの水運はかなりにぎわったのでしょうね。
行徳から清澄庭園まで地図ではたどっているのですが、一度実際に見てみるのもよいかの知れませんね。

管理者のみに表示