小見川に平良文をみる(2)-良文貝塚

 阿玉台貝塚の近くに「良文貝塚」というところがあると言うので探した。
途中から少し狭い道で、右手に畑があり左手は森になっている場所だ。

しばらく行くと「史跡 良文村貝塚」との石碑が置かれていた。
良文貝塚だと思っていたが、良文村貝塚となっている。

調べてみるとこの阿玉台村や貝塚村などが合併して明治22年に良文村が誕生し、昭和30年に小見川町と合併するまで存在した村の名前であった。

もちろんこの良文は千葉氏の祖といわれる平良文のことだが、ここでこのように大切にされているとはこの地に来るまで知らなかった。

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平良文(たいらのよしぶみ)はこの近くに館を構えていたという。

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この良文貝塚は縄文時代中期から後期の貝塚で、ここも標高は40mくらいある。利根川下流で最大の貝塚群で昭和5年に国の史跡に登録された。

この貝塚が広範囲で縄文後期までの長い年代の貝塚群であるということで縄文海進の引き合いに出されるようですが、霞ヶ浦湖岸の貝塚を見てきた感想から言うと、本当にこんなに海面が高かったのどろうかというのが素直な気持ちです。

貝塚では貝以外にもいろいろなものが出土しています。特に人物意匠をもつ香炉型顔面付土器(こちら参照)などは特に珍しい物。


この貝層見学施設となっている白い箱の中にはびっしりと貝層が見られるが、ガラス窓も汚れておりあまり親切な施設とは言えない。

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この見学施設は、昔は3か所にあったと言うが今はこの1か所だけ。

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(ここからは歴史のメモ程度に、私的なメモ書きです)

平安時代中期に桓武天王のひ孫(または孫)であった高望王(たかもちおう)が宇多天皇より889年に平(たいら)姓をもらって上総介として、上総国にやってきたのが桓武平氏の始まりです。

もう当時の高級官僚である上総介は都にいて現地に来ることは少なくなっていたのですが、高望は上総国(今の千葉県東部、国府:市原)に、正妻の子である国香、良兼、良将を連れてやってきました。

でもこの時には側室の子であった「良文(よしぶみ)」はまだ小さい(3歳くらいだったとか)一緒には来ていないのです。

関東平氏の流れを参考までに少しだけ述べておきます。

高望とその3人の息子たちは、この地を開拓して領地を広げ、この坂東に強力な領地を獲得するに至ります。
高望はその後(902年)に西海道の九州大宰府に移ったようですが、息子たちはこの地で勢力を拡大していったのです。
(菅原道真が大宰府に流されたのは901年ですからほとんど同じ頃です)

さてその後の子供達は、長男国香は当時筑波山南側に広大な領地をもつ前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえて常陸国に勢力をのばし、その後常陸大掾(だいじょう)として君臨します。
(平清盛などの伊勢平氏(平家)もこの国香の系列から分かれたものです。)

しかし弟良将の子である平将門とこの護との領地争い(または護の娘や良兼の娘の争い)などで将門を襲った国香や護の子供たちの襲撃などもあり、将門は反乱をおこし、国香は殺されてしまいます。

次男良兼は父の高望が上総介の任期が切れてもやはり都には戻らず上総介として現地にとどまり、上総から下総にかけて勢力を拡大していきました。
居住していたのは上総国武射郡屋形(現在の千葉県山武郡横芝光町、匝瑳市のとなり)で屋形船などのことばの原型ではないかと言われている(屋形=館)そうです。

さて、この良兼はもともと将門とは不仲だったようで、兄国香が殺され、将門に対して出陣しますが敢え無く敗退。
下野国府(現栃木市)に逃げ込んだが取り囲まれてしまうが、良兼の娘を妻としている将門が一角を開けて逃がした。
その後も二人の争いは続くが、939年に病死します。

では、将門の父である高望王の三男良将(または良持)はというと、やはり下総の未開拓地などを開拓して領地を拡げていったようです。

最初の領地はこの香取市の佐原付近だと言われているようです。しかし正確なことな残っておらず、前に真壁散歩で書いたように猿島地区(坂東市)に屋敷を構えていたと言われています。

また子供の将門が滅んだ後は子孫がほとんど残っていないようです。

ではこの地で祀られている平良文はというと、側室の子であるということや、まだ幼かったということで父高望には同行せず、武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に陸奥守、鎮守府将軍としてやって来て村岡五郎と呼ばれるようになります。
その後、村岡から千葉県東庄町大友に移り、それからこの小見川の阿玉台に館を築いたと言われているのですがこの辺りはどうもはっきりしません。

また、相模国村岡(神奈川県藤沢市)にも領地があり、こちらで亡くなったとする説と、この小見川の阿玉台付近で亡くなったとする説に分かれます。
墓所は神奈川県藤沢市渡内の二伝寺というのがどうやら定説のようですがはっきりしません。

国香や良兼は将門との争いをしますが、この良文はどちらかというと将門の味方と考えられているようですが、将門討伐には加わらず、後に下総国相馬郡を与えられ、坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の基礎を築きました。

この千葉県ではやはり千葉氏の祖といわれる人物なのですが、千葉氏についても詳しいことが分からず、謎も多いようです。


夕顔観音の伝説などや良文の名前が残るこの地にどのような事が当時あったのかは興味があります。

夕顔観音などについては次回とします。



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小見川に平良文をみる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/04 18:55
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