小見川に平良文をみる(4)-来迎寺
今日は良文貝塚近くの来迎寺を紹介します。
東光山宝樹院来迎寺 浄土宗鎮西派の寺です。
ここには鎌倉将軍3代の墓碑がある。
全国に来迎寺という名前の寺は数多くあるという。
鎌倉にも2か所あり、多くが阿弥陀如来を祀っているようだ。

阿玉台貝塚から良文貝塚に向かう途中にこの比較的大きな寺があります。
一般に寺などは道路より高い場所にあるのが普通ですが、ここは貝塚の道路が比較的高いところを通っており、階段で一旦下に降りる様に寺の入り口につながっています。
山谷が入り乱れて、比較的起伏の激しいところです。

寛治2年(1088)に千葉常将が東庄町平山に創建し、建久9年(1198)に明恵上人がこの地に移転したと言われています。

鐘楼堂。

本堂


阿弥陀三尊の板碑(黒雲母)。鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)の銘がある。
頭に頭光を負った観音菩薩像が三体彫られている。
この寺にはその他に阿弥陀一尊種子板碑(梵字)がある。

この阿弥陀三尊の後ろに「松平外記頭伊昌(これまさ)の室おふうの方の墓碑」がある。
この「おふう」は酒井忠次の娘で、徳川家康の養女となった娘である。
おふうは浄土宗に帰依し、遺言によって当寺に遺髪を葬り石碑を建立したという。
またここに鎌倉三代(源頼朝、頼家、実朝)の墓碑がある。
これは鹿島神宮に参拝した源頼朝がこの寺で休憩し、建久9年(1198)にこの地に移したのは頼朝の鹿島神宮参拝の際に頼朝が深く帰依していた明恵上人を開山上人として置いたものとも言われている。
かなりの有力寺院であったことが分かる。

五地蔵の左端にあるのが「神野角助の墓である宝筐印塔」
私はよく知らないが、神野角助という人物はこの辺りの土地の有力者で、海上氏の嫡流であったが家督を離れ神野氏となり、小見川の松平家忠と親交が深かったという。
この場所には神野角助の陣屋があったようだ。

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東光山宝樹院来迎寺 浄土宗鎮西派の寺です。
ここには鎌倉将軍3代の墓碑がある。
全国に来迎寺という名前の寺は数多くあるという。
鎌倉にも2か所あり、多くが阿弥陀如来を祀っているようだ。

阿玉台貝塚から良文貝塚に向かう途中にこの比較的大きな寺があります。
一般に寺などは道路より高い場所にあるのが普通ですが、ここは貝塚の道路が比較的高いところを通っており、階段で一旦下に降りる様に寺の入り口につながっています。
山谷が入り乱れて、比較的起伏の激しいところです。

寛治2年(1088)に千葉常将が東庄町平山に創建し、建久9年(1198)に明恵上人がこの地に移転したと言われています。

鐘楼堂。

本堂


阿弥陀三尊の板碑(黒雲母)。鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)の銘がある。
頭に頭光を負った観音菩薩像が三体彫られている。
この寺にはその他に阿弥陀一尊種子板碑(梵字)がある。

この阿弥陀三尊の後ろに「松平外記頭伊昌(これまさ)の室おふうの方の墓碑」がある。
この「おふう」は酒井忠次の娘で、徳川家康の養女となった娘である。
おふうは浄土宗に帰依し、遺言によって当寺に遺髪を葬り石碑を建立したという。
またここに鎌倉三代(源頼朝、頼家、実朝)の墓碑がある。
これは鹿島神宮に参拝した源頼朝がこの寺で休憩し、建久9年(1198)にこの地に移したのは頼朝の鹿島神宮参拝の際に頼朝が深く帰依していた明恵上人を開山上人として置いたものとも言われている。
かなりの有力寺院であったことが分かる。

五地蔵の左端にあるのが「神野角助の墓である宝筐印塔」
私はよく知らないが、神野角助という人物はこの辺りの土地の有力者で、海上氏の嫡流であったが家督を離れ神野氏となり、小見川の松平家忠と親交が深かったという。
この場所には神野角助の陣屋があったようだ。



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