とりのこみち(2)-善徳寺(1)
昨日紹介したトリノコ(鷲子)道の周辺では江戸時代には和紙造りが行われ、それに適した三椏(ミツマタ)などの木もたくさん植えられていたのかもしれない。
紙問屋も高部などの町にはあり、商人も行き来していたに違いない。
向け先は水戸の御城下で常陸太田などを通っていたものと思う。その時代の紙は貴重品であった。
さて、昔の街道と思われる横道沿いに「善徳寺」という寺があった。入口には昔風の白壁の蔵造りの建物があった。
額光山善徳寺:浄土真宗本願寺派の寺院である。

通りの入口。
この入口をはいって川を渡った先に寺がある。

親鸞の24人の弟子(二十四輩)により関東地方に建てられた寺である。
十二番「善念房」によりこの地より南の額田に近い南酒出に建立(建保三年(1215))された。

老松と山門がこの山間の寺の趣を感じさせてくれます。

山門をくぐると整えられた美しい庭の木々が目に飛び込んできます。

詳しい寺の説明は上記の看板に書かれていますので興味のある方は読んでください。
開祖は親鸞二十四輩の一人である「善念房」
この寺の説明によれば、善念房は久慈郡内田の領主「南酒出六郎義茂」となっており、この六郎義茂は佐竹昌義の孫であるという。
しかし、調べてみると二十四輩の善念房の寺はもう一つあって、水戸市酒門町に「善重寺」(遍照山光明院 浄土真宗大谷派)がある。
こちらの寺伝では善念房は相模国の三浦義重という武士であったという。
さて、どちらが正しいのかわからない。
しかし水戸の寺とこの鷲子(とりのこ)の寺を比べるのは本意ではない。
この山間の地に佇む寺を是非訪れてみていただきたい。
ここに来ると安らかな気持ちで落ち着く事が出来る様に思う。

寺の本堂。
南酒出より正和三年(1314)に鷲子に移り、延徳元年(1489)に火災に遭った。
その後、寛永七年(1630)に再建されたものである。本尊は阿弥陀如来像。



じっくりと眺めていたい落ち着いた寺であった。
明日に記事が少し続きます。
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紙問屋も高部などの町にはあり、商人も行き来していたに違いない。
向け先は水戸の御城下で常陸太田などを通っていたものと思う。その時代の紙は貴重品であった。
さて、昔の街道と思われる横道沿いに「善徳寺」という寺があった。入口には昔風の白壁の蔵造りの建物があった。
額光山善徳寺:浄土真宗本願寺派の寺院である。

通りの入口。
この入口をはいって川を渡った先に寺がある。

親鸞の24人の弟子(二十四輩)により関東地方に建てられた寺である。
十二番「善念房」によりこの地より南の額田に近い南酒出に建立(建保三年(1215))された。

老松と山門がこの山間の寺の趣を感じさせてくれます。

山門をくぐると整えられた美しい庭の木々が目に飛び込んできます。

詳しい寺の説明は上記の看板に書かれていますので興味のある方は読んでください。
開祖は親鸞二十四輩の一人である「善念房」
この寺の説明によれば、善念房は久慈郡内田の領主「南酒出六郎義茂」となっており、この六郎義茂は佐竹昌義の孫であるという。
しかし、調べてみると二十四輩の善念房の寺はもう一つあって、水戸市酒門町に「善重寺」(遍照山光明院 浄土真宗大谷派)がある。
こちらの寺伝では善念房は相模国の三浦義重という武士であったという。
さて、どちらが正しいのかわからない。
しかし水戸の寺とこの鷲子(とりのこ)の寺を比べるのは本意ではない。
この山間の地に佇む寺を是非訪れてみていただきたい。
ここに来ると安らかな気持ちで落ち着く事が出来る様に思う。

寺の本堂。
南酒出より正和三年(1314)に鷲子に移り、延徳元年(1489)に火災に遭った。
その後、寛永七年(1630)に再建されたものである。本尊は阿弥陀如来像。



じっくりと眺めていたい落ち着いた寺であった。
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