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二人の唯信房(2)-幡谷の唯信(2)

 昨日の続きです。

今紹介している水戸の歴史館横にある「信願寺」を訪ねてみようと思ったのは、この寺の開祖が「幡谷の唯信」とされていて、この幡谷に興味を持ったこと、また昨日紹介した親鸞の家族を表した像があることを知ったからなのです。

親鸞は40歳で越後での法難から解放され、常陸にやってきたのは42歳の時だと言われています。
越後で妻を持ち、妻と幼子を連れて京には戻らず、常陸国に何を求めてやってきたのでしょうか。

師法然は親鸞より40歳も年上。

常陸国の布教の中心となったのは稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。(西念寺:以前の紹介記事はこちら

この場所で浄土真宗の聖典になる「教行信証」を表したと言われており、弟子といわれる人も70人近くにのぼったそうです。

そして20年にわたる常陸国での布教活動を弟子たちにゆだね、京にもどったのは62歳の頃です。

しかし関東に残した弟子たちが流布する親鸞の教えが少しずつ自分の考えと離れ始めていきます。

そこで自分の長男の「善鸞」を遣わせて正しい道を伝えようとしますが、常陸国にやってきた善鸞は、なかなか言うことを聞いてくれないので親鸞からの全権をまかされたと流布します。

そこで、親鸞84歳?の時になくなく長男「善鸞」を義絶(親子の縁を切る)したのです。

親鸞は京での身の回りの事は一番下の娘が付き添っており、90歳で亡くなったとされていますが、この善鸞を義絶した事を知った弟子たちが親鸞の元に駆け付けます。

そして親鸞から関東での異説のどこがいけないのかの教えを受けます。

その弟子の中の一人唯円がこの親鸞の教えとして「歎異抄」を書いたのは親鸞没後30年くらい経った頃と言われています。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

これは昔、中学の頃「反語」が好きな若い国語の先生からたっぷりと聞かされました。
「0=∞(無限大)」などと言うのも良く言っていたのを思い出します。

この歎異抄の有名な文言は知っているが、この歎異抄が書かれた背景などはよく知らなかった。

「異説をなげく」と言うことなのですね。

こんなことを知ると、もう少し知りたくなってくる。  困ったものだな。

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さて、この水戸の信願寺は幡谷(はたや)の唯信(ゆいしん)が旧小川町(現小美玉市)の幡谷に建てた後に、数か所を転々として現在地に1681年と言うので江戸の初期になります。

幡谷の唯信は鎌倉時代に幡谷城の城主であったのではないかという武士だったそうです。
名前は幡谷信勝。

現在水戸の「信願寺」以外に日立市金沢町にある「覚念寺」の2か所がこの唯信の寺だと言われています。

こちらの覚念寺に伝わる唯信は那珂郡小瀬(現常陸大宮市)に覚念寺を建て、1600年に日立市に移ったとされ、佐々木四郎高綱(宇多天皇から源氏姓をもらう)の三男、左衛門尉源高重という武士であったと伝えています。

所変われば内容も随分違います。

さて、話を戻して幡谷という名前が気になっています。
これは小川町の幡谷地区で、この近くには親鸞の通過した記録と言うようなものがたくさん残されています。
特に「喜八阿弥陀」(私のHPに書いたのはこちら)には親鸞直筆の絵画三幅が残されています。
前に記事を書いた時はこの絵も信憑性に疑問があると思いましたが、この時代にこの幡谷の唯信がこの地で布教し、親鸞も鉾田方面の幽霊図で有名な「無量寿寺(記事1記事2)」にも何度も足を運んだことはわかっています。

その時にはこの道を何度も通ったのかもしれません。

この近くにこの喜八阿弥陀堂の「長島喜八」さんの奥さんが難産で死亡した時に怨念となって現われた幽霊を鎮めた経塚(こちら)も残っています。


親鸞が暮らした稲田の草庵(西念寺)(こちら)からこの地を通り鹿島などへ何度も通った道なのでしょう。

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(クリックで拡大します)

これらの関係が今までわからなかったのですが、あまりにも知られていないのがとても不思議です。

幡谷というと今では茨城県信用金庫(けんしん)生みの親が幡谷氏であり、小川町の町長時代に百里基地を誘致し、いまはその半分が茨城空港ができています。
空港の一角にこの幡谷氏の銅像が建てられています。

また、幡谷城についてはまだよくわかっておらず、鎌倉時代に幡谷氏が治めていたが、小川城(園部氏)の支城となり、戦国末期には最初は味方であった石岡の大掾氏とも敵見方となり争い、天正18年(1590)に佐竹氏に皆滅ぼされたのだろう。


親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/19 21:25
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