宍戸城跡
茨城県笠間市宍戸の町を少し歩いて気がついたものなどを紹介しています。
この町は何と言っても宍戸氏の居城であった宍戸城がどのようであったのかが気になります。
おおざっぱに歴史を振り返ってみましょう。
この辺りの地の近くには涸沼川が流れています。
宍戸の少し南には小原と言う土地があります。昔茨城郡に入っていたが途中から那珂郡に組み込まれたという場所でしょう。
今年は常陸国風土記が書かれてほぼ1300年経つと言うので、茨城県の各地で記念の行事が行われています。
風土記が書かれたのは8世紀初め(西暦720年頃)の事で、この時には茨城郡の郡衙は今の石岡にあったことは確かですが、それより前の7世紀前半には茨城郡の郡衙がこの辺り(小原、友部、宍戸あたり)にあったと思われるのです。
ここの歴史民俗資料館に立寄り少しその思いは強くなりました。
しかし、7世紀半ば頃にはこの地が那珂郡に編入されたため、茨城郡の群衙を石岡に移したのです。
その頃に茨城廃寺(茨城郡の郡寺)が建てられたのでしょう。国分寺が建つ50年以上前です。
そのため、茨城の名前はこの辺りにあったため、石岡駅前に書かれている「茨城の県名発祥の地」というのは正確には間違いです。
石岡には茨城と書いてバラキと読む土地があります。
ここが県名発祥の地であり、バラがたくさん咲いていたなどと言うバカげた話を何故本気でするのでしょうか?
この茨城(バラキ)も少し前までは茨木と書いていました。茨城廃寺の茨木寺書いていました。
さて、石岡の話は置いておくとして、この宍戸の地に八田知家の四男が居を構え宍戸氏を名乗ります。
この八田知家と言うのはなかなか重要な人物で、筑波・土浦で勢力を張った小田氏の祖です。
調べれば調べる程わからなくなる人物です。
一般には藤原北家の宇都宮氏の子供(宇都宮宗綱の四男)とされますが、どうやら子供と言っても養子に入ったのではないかと思われます。
または源頼朝の子供(10男、御落胤)だともいわれています。
源平合戦でも活躍し、鎌倉の御家人となります。
その後常陸守護職を任せられ、常陸大掾職(守護の上の位)を狙って、多気大掾(つくば市北条)を換言で陥れ、滅ぼしてしまいます。
また壇ノ浦の合戦では源氏の那須野与一とならんで双璧ともいわれた平家の「平景清(かげきよ)」は、戦い後に頼朝に捉えられ、殺すにおしいとこの八田知家に預けられたが、景清は食を絶って死んだともいわれています。
この景清は石岡で生まれたとの伝説が残されています。
また壇ノ浦の後に九州に流されたとする伝説も残っています。

さて、この宍戸という地は今では忘れられたような場所になっていますが、かなり重要な土地だったようです。
宍戸氏もかなりの力を持っていました。新善光寺を建て、この信仰がかなり大事にされたようですが、宍戸氏が佐竹氏に組みせられたときに、海老ヶ島(現筑西市)に寺も城も移ってしまいます。(1595年)
その後、佐竹氏が秋田に転封となって秋田氏が秋田からやってきます。1602年のことです。
その当時にこの宍戸は5万石だったのです。かなり広い地域がこの宍戸藩になっていたのでしょう。
その中心がこの現在の宍戸駅の南側の平地に城が出来たのです。
秋田氏も1645年に三春の桜で有名な郡山の近くの三春に移るまでここにいました。

上の地図は三春に移る1年前に書かれたものだそうです。秋田氏がこの地に城を築いていたのでしょう。
それによると本丸や北丸などが土塁で囲まれていたようです。

秋田氏が三春に移った後、水戸光圀の弟「松平頼雄(よりお)」が水戸徳川藩から1万石をもらってやってきます。
そして、ここには陣屋がおかれただけでした。
ここの常陸宍戸藩(1万石)と石岡の常陸府中藩(2万石)、それと離れていますが四国の高松藩(12万石)の3か所が水戸の松平の支藩となります。

しかし、宍戸城(秋田氏の居城)にあった土塁などで昔をしのぶことができるところは、この末廣稲荷神社の土塁だけとなってしまいました。
一昔前まではかなり土塁跡が残っていたのだそうです。
それを明治初めに開校した宍戸小学校を、現在の地(歴史民俗資料館前)に移転する時にその工事に必要とされた土砂に使われてしまったのだそうです。(歴史民俗資料館でお話を伺いました)
宍戸小学校が現在の地に移転したのは大正9年です。当時は木造で、現在の鉄筋校舎は昭和58年に建てられたそうです。

陣屋があっただけで、殿様は江戸にいて、ここ宍戸藩の管理は水戸藩がやっていたようだ。
ということは宍戸の松平家は形ばかりで藩主がこの地に住むことはなかったらしい。
しかし9代松平頼徳の時に天狗党の乱が勃発し、取り締まりを命ぜられたが失敗。切腹させられて宍戸藩はお取りつぶし(1864年)。3年半後に藩の再興が行われそのまま明治に。廃藩置県で一時的に宍戸県が誕生した。

陣屋の立派な門が残されているそうです。しかも土師(はし)の民家に残されているそうです。(こちら参照)
ただ城はなく陣屋を元の秋田氏の城のあった辺りに作ったようですが、あまり大がかりなものではなかったようだ。
街並みとしても真壁の陣屋のような遺構はあまり残っていないように思う。

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この町は何と言っても宍戸氏の居城であった宍戸城がどのようであったのかが気になります。
おおざっぱに歴史を振り返ってみましょう。
この辺りの地の近くには涸沼川が流れています。
宍戸の少し南には小原と言う土地があります。昔茨城郡に入っていたが途中から那珂郡に組み込まれたという場所でしょう。
今年は常陸国風土記が書かれてほぼ1300年経つと言うので、茨城県の各地で記念の行事が行われています。
風土記が書かれたのは8世紀初め(西暦720年頃)の事で、この時には茨城郡の郡衙は今の石岡にあったことは確かですが、それより前の7世紀前半には茨城郡の郡衙がこの辺り(小原、友部、宍戸あたり)にあったと思われるのです。
ここの歴史民俗資料館に立寄り少しその思いは強くなりました。
しかし、7世紀半ば頃にはこの地が那珂郡に編入されたため、茨城郡の群衙を石岡に移したのです。
その頃に茨城廃寺(茨城郡の郡寺)が建てられたのでしょう。国分寺が建つ50年以上前です。
そのため、茨城の名前はこの辺りにあったため、石岡駅前に書かれている「茨城の県名発祥の地」というのは正確には間違いです。
石岡には茨城と書いてバラキと読む土地があります。
ここが県名発祥の地であり、バラがたくさん咲いていたなどと言うバカげた話を何故本気でするのでしょうか?
この茨城(バラキ)も少し前までは茨木と書いていました。茨城廃寺の茨木寺書いていました。
さて、石岡の話は置いておくとして、この宍戸の地に八田知家の四男が居を構え宍戸氏を名乗ります。
この八田知家と言うのはなかなか重要な人物で、筑波・土浦で勢力を張った小田氏の祖です。
調べれば調べる程わからなくなる人物です。
一般には藤原北家の宇都宮氏の子供(宇都宮宗綱の四男)とされますが、どうやら子供と言っても養子に入ったのではないかと思われます。
または源頼朝の子供(10男、御落胤)だともいわれています。
源平合戦でも活躍し、鎌倉の御家人となります。
その後常陸守護職を任せられ、常陸大掾職(守護の上の位)を狙って、多気大掾(つくば市北条)を換言で陥れ、滅ぼしてしまいます。
また壇ノ浦の合戦では源氏の那須野与一とならんで双璧ともいわれた平家の「平景清(かげきよ)」は、戦い後に頼朝に捉えられ、殺すにおしいとこの八田知家に預けられたが、景清は食を絶って死んだともいわれています。
この景清は石岡で生まれたとの伝説が残されています。
また壇ノ浦の後に九州に流されたとする伝説も残っています。

さて、この宍戸という地は今では忘れられたような場所になっていますが、かなり重要な土地だったようです。
宍戸氏もかなりの力を持っていました。新善光寺を建て、この信仰がかなり大事にされたようですが、宍戸氏が佐竹氏に組みせられたときに、海老ヶ島(現筑西市)に寺も城も移ってしまいます。(1595年)
その後、佐竹氏が秋田に転封となって秋田氏が秋田からやってきます。1602年のことです。
その当時にこの宍戸は5万石だったのです。かなり広い地域がこの宍戸藩になっていたのでしょう。
その中心がこの現在の宍戸駅の南側の平地に城が出来たのです。
秋田氏も1645年に三春の桜で有名な郡山の近くの三春に移るまでここにいました。

上の地図は三春に移る1年前に書かれたものだそうです。秋田氏がこの地に城を築いていたのでしょう。
それによると本丸や北丸などが土塁で囲まれていたようです。

秋田氏が三春に移った後、水戸光圀の弟「松平頼雄(よりお)」が水戸徳川藩から1万石をもらってやってきます。
そして、ここには陣屋がおかれただけでした。
ここの常陸宍戸藩(1万石)と石岡の常陸府中藩(2万石)、それと離れていますが四国の高松藩(12万石)の3か所が水戸の松平の支藩となります。

しかし、宍戸城(秋田氏の居城)にあった土塁などで昔をしのぶことができるところは、この末廣稲荷神社の土塁だけとなってしまいました。
一昔前まではかなり土塁跡が残っていたのだそうです。
それを明治初めに開校した宍戸小学校を、現在の地(歴史民俗資料館前)に移転する時にその工事に必要とされた土砂に使われてしまったのだそうです。(歴史民俗資料館でお話を伺いました)
宍戸小学校が現在の地に移転したのは大正9年です。当時は木造で、現在の鉄筋校舎は昭和58年に建てられたそうです。

陣屋があっただけで、殿様は江戸にいて、ここ宍戸藩の管理は水戸藩がやっていたようだ。
ということは宍戸の松平家は形ばかりで藩主がこの地に住むことはなかったらしい。
しかし9代松平頼徳の時に天狗党の乱が勃発し、取り締まりを命ぜられたが失敗。切腹させられて宍戸藩はお取りつぶし(1864年)。3年半後に藩の再興が行われそのまま明治に。廃藩置県で一時的に宍戸県が誕生した。

陣屋の立派な門が残されているそうです。しかも土師(はし)の民家に残されているそうです。(こちら参照)
ただ城はなく陣屋を元の秋田氏の城のあった辺りに作ったようですが、あまり大がかりなものではなかったようだ。
街並みとしても真壁の陣屋のような遺構はあまり残っていないように思う。



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