鹿島神宮(2)-御船祭

 鹿島神宮の御船祭は12年に一度行われる水上祭だという。

これが来年(平成26年)9月1日~3日に行われる。来年は午(うま)年だそうです。
鹿島・香取は馬に縁があるようです。

鹿島神宮の「武甕槌(たけみかずち)」と、香取神宮の「経津主(ふつぬし)」のそれぞれの武神が水上で再会するという祭だ。

鹿島神宮から出御した神輿を2日目の朝9時頃に一の鳥居のある大船津で船に乗せ、全部で50隻以上の船が、平安絵巻さながらに行列を組んで進んでいくのだそうだ。

(詳細と写真は:こちら

水郷地帯の加藤洲で経津主と合い、再び鹿島神宮に戻る。

さて、香取神宮の方の弐年大祭は神幸祭といい、来年(平成26年)4月15・16日に行われる。

同時に行うのかと思いましたが、それだと主催がどちらかわからなくなってしまい、上下関係がついてしまうことを恐れたのでしょうか。

でも対になった神社の例大祭が春と秋にわかれているのはよくある話ですので気にはなりません。

この2つの神社(神宮)の位置関係をもう一度チェックしてみましょう。

この神社が作られた頃を想像して水面を4m程上昇させた地図で考えてみます。

kashima.jpg
(クリックするともう少し大きな地図になります)


さて、出雲大社は60年に1度の遷宮、伊勢神宮は20年に1度の遷宮で神社の本殿を取り替えたり、修理したりしてきました。

ここ鹿島神宮と香取神宮も元々は20年に1度の遷宮、本殿の修理などを行っていたそうです。
しかし、これも戦国時代になり続けることができずに一時中止され、その後復活されたときに12年に1度となったようです。

この鹿嶋神宮と香取神宮は日本の国譲りでは重要な役目を担っています。

両方ともこの東国を平定した大和朝廷の武人を祀っています。そのため、現在でも剣道などの武術をする人たちのよりどころとされ、子供たちの参拝も絶えません。

ではこれら2人の武神はどんな人物だったのでしょうか。そしてどんなことがあったのでしょうか?

そんなことを考えても仕方がないと思う人も多いでしょうが、気になると知りたくなりますよね。

上の地図を眺めながら勝手な想像をしてみましょう。

この現在の霞ヶ浦は昔は大きな内海で流れ海とか香取の海とか呼ばれていました。

そこには静かな海が広がり人びとは貝や魚を採り、山の木の実や獣もとって1万年以上にも亘って仲良く暮らしていた人々がいました。

これらの人びとは肌には入れ墨をし、洞窟のような穴の中で生活するものが多かったようです。狩りも得意で男性たちも勇猛だったのでしょう。

そこに南からの黒潮と北からの親潮に乗って二つの流れがぶつかるこの場所に、船を操るのがうまい人びとがやってきました。そしてそれまでにいた人々と住み分けしながら暮らしていたのかもしれません。

そして後からやってきた人びとも、魚の豊富なこの地で漁をし、稲作の技術や麻や絹などの作り方も知っていたとも考えられます。そして少しずつ集団も出来てきました。

そして、現在の霞ヶ浦の南側(利根川の南)には「兎上国(うみのうえこく)」という小国ができました。

一方九州から東進してきた民族は今の奈良県に定住の地を確保し、日本の統一に乗り出します。

東国制定にやってきた武人はやはり九州の多氏族「建借間(タケカシマ)命」です。

常陸国風土記ではまず賊を退治しようとやってきた場所は「安婆(アバ)島」でここから東の対岸で立ち上る煙が敵か味方かを占っています。

上の地図にはこの「安婆嶋」と思われる場所を載せています。ここにはこの海の安全をつかさどる神を祀った大杉神社があります。(前の記事:大杉神社

そして、この安婆嶋の先端から見える対岸は「潮来」の地です。

ここから建借間の軍団は船で潮来に渡ります。

しかし、言うことを聞かせようと武力で現地人を捕まえようとしますが、現地人はすみかである洞穴などに逃げ込んで出てきません。

そこで策を考え、浜辺で楽しそうな祭りを行って、現住民を浜辺に誘い出し、そこで皆殺しにしてしまうのです。

そしてしばらくは北浦の西岸の大生の地(前に書いた記事参照:大生神社(1)、大生神社(2))で体制を整え、西の行方方面に進出しますが、そこにはまだたくさんの敵がいたのでそこを後から攻めることにして、海岸近くを制圧してそのまま北浦を北上し、水戸から那珂川をさかのぼってここを勢力下に治めたのでしょう。(勝手な推測)

その功績を認められ、都からは仲国を治める「仲国造」として任命されます。

そしてそのシンボルとして建立されたのが多氏の祭神「武甕槌」を祀る鹿島神宮であると・・・・。

その後制圧していった場所には信仰の対象として鹿島神社が建てられていきます。

香取神宮の祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)「常陸国風土記では普都の大神」だが、こちらも兎上国にやってきて千葉から常陸国の信太郡まで進行してきます。

そして常陸国風土記では信太の地で役目を終わり、着ていた鎧や兜を脱いで天に登っていきます。

こちらの民族はどうやら出雲系の痕跡をもつ物部氏の氏族と思われ、初期は大きな力をもっていたが、途中から陰に隠れてしまい、表舞台から姿を消してしまいます。

そして、日本の歴史の中では鹿島の武甕槌(たけみかづち)に従うような神と姿が変ってしまったようです。

この地域には鹿島神社と並んで香取神社もたくさんあります。

でも香取神社が本当はもっとあったんではないかと思っています。

いずれにしてもこの霞ヶ浦の入口の両側を抑えてしまったので、蝦夷の人びとは常陸の国では石岡・笠間から石塚街道を北上し、御前山からどんどん北上して逃げていくしかなかったのではないかと思います。

また海寄りに逃げていった人々も山を分け入って北上し、日立市十王あたりから海岸沿いを福島の方に北上していった人たちもいたのでしょう。

今回は勝手な想いを載せていますので、史実とは異なる部分も多いと思います。

あまりまともに考えずに、こんなことを考えていると言うだけですので適当に読み飛ばしてください。

でも、現地を訪れて感じることを私なりに解釈していくとこんなストーリーになってきたのです。

しかし、この鹿島神宮はこれだけの解釈では理解できない点が多々あります。

蝦夷人の神は神社などは持たなかったのでしょうが、山や森、鳥や生き物などはカムイ(神)という考え方は当時からあったのでしょう。
その中でこの鹿島神宮のある森は特殊な大神がいたと信じられていた場所だったのかもしれません。

力で制圧していったのも確かにあるのでしょうが、蝦夷人たちの信仰の中心になる神としてもその存在を感じるのは私だけではないでしょう。

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鹿島神宮 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/08/14 16:00
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