鹿島神宮(9)-三笠神社と高房神社

 鹿島神宮に詣でてみて何か特別な思いがするのはなぜなのでしょう。
日本の建国にあたって特別に功労のあった武人「タケミカヅチ」を祀っているのはどのような意味があるのでしょうか。
また、藤原氏が台頭した時にこの鹿島神宮を第一位の氏神として春日山に迎えたのにはどのような思い入れがあったのでしょう。
徳川の世になっても家康は社殿を寄進してこの鹿島の森に特別な霊地として取り扱っているのです。

鹿島の地はどのように成り立ってきたのでしょうか?
その鍵はこの神社の摂社といわれる神社を紐解けば少し見えてきそうです。

さて、鹿島神宮の摂社は神宮のホームページによれば、「沼尾神社、坂戸神社、跡宮、息栖神社、奥宮、高房神社、三笠神社」の七社あると言います。

この中で、この鹿島神宮境内にあるのは奥宮(おくのみや)と高房(たかふさ)神社、三笠(みかさ)神社の三社です。その他に沼尾(ぬまお)神社と坂戸(さかと)神社の遙拝所があります。

奥宮はこの鹿島神宮の祭神である武甕槌大神の荒魂を祀っており、先日紹介しました(こちら)。

今日は本殿のすぐ近くにある「三笠神社」と仮殿の前にある「高房神社」を紹介しておきたいと思います。

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こちらが三笠神社です。
現在本殿が修理中でこの三笠神社の前も入ることができません。
写真の右手(西側)に本殿があり、本殿を向いて建っています。

この神社の建物も比較的新しいようです。昔の写真を見るともっと大分小さなものだったようです。

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もう一つの高房神社というのは、楼門をはいって真直ぐ参道の左側に楼門(随神門)の方(西)を向いて建っています。
この左手が仮殿です。仮殿は本殿の方を向いて(向かい合わせで)建っています。

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上の写真は右が高房神社で左が仮殿です。

もともと20年に一度本殿は建てなおしたり修理してきました。その間本殿の神魂は仮殿に御移りになられるのですが、この仮殿の位置は何度も変更になったようです。
昔は楼門をはいって正面にこの仮殿がおかれたこともあったと書かれていました。

さて、ではこの二つの神社と鹿島神宮のかかわりはどんなことになっているのでしょうか。
それにはこれらの神社に祭られている祭神をみてみるとなんとなくわかってきそうです。

まず、三笠神社ですが祀られているのは「三笠神(みかさのかみ)」となっており、神宮のホームページの説明では、昔から良くわからない摂社で、江戸時代までは「甲神社」と呼ばれていたとあります。

また、「古い記録には「甲宮三笠大明神とも申し奉る。または山の神とも申す。地守の神なり」とあり、三笠山の名前は、奈良の春日へ御分霊奉遷のとき一緒に遷って奈良の「御蓋山」(みかさやま)となったと伝えられています。」 と書かれています。

この鹿島神宮創建の時に、この鹿島の森は三笠山と称されており、そこに鎮座していた神社のようです。
いわゆる鎮守の森の神なのでしょう。

遣唐使として中国の唐に派遣された阿倍仲麻呂は遠く異国の地でふるさとの方を眺めながら詠んだと言われる

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

の歌は当時の情勢ならば当然都である奈良の春日、三笠山でしょう。でもその故郷はこの鹿島の地にあるのです。

もう一つの高房神社は常陸国二の宮である「静(しず)神社」と深くかかわっています。
祭神は「建葉槌神(たけはづちのかみ)」です。

日本建国時にこの鹿島・香取の地を制圧して大和朝廷はさらに北を目指しました。
しかし、北の方には星を祀る信仰を持った一族が住んでいました。
「天香香背男(あめのかがせお)」です。

恐らくこの香香背男はこの霞ヶ浦周辺にも住んでおり、タケミカヅチや黒坂命などにより北に追い詰められていったのでしょう。

タケミカヅチの武力でも制圧できない大きな力を持っていました。このため、この天香香背男を倒すために「建葉槌(たけはづち)」が使わされました。

そして、当時は日立市の手前の「大甕(おおみか)」近辺に香香背男という蝦夷の大きな勢力が存在していたのでしょう。

建葉槌はこの大甕で星を信仰していた部族「香香背男」を制圧したのです。
そして「大甕神社」にこの建葉槌神(たけはづちのかみ)が祀られました。

この建葉槌神はまた「倭文神(しずりのかみ)」とも呼ばれ、織物の神様としても知られます。

この倭文神として祀られているのが常陸国二の宮である「静神社」なのです。

また倭文(しずり)の神社の系列を見ていくと阿波忌部の祖神「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」とどうもつながってくるのは何で何でしょうか。

常陸国の那珂川の入口にある「大洗磯前神社」にも祀られ、またスクナヒコナを祀る神社が酒列磯前神社、阿波山上神社などの神社が並ぶのも何か関係があるのかもしれません。

まあ今回は気がついた所だけをかいつまんで記しておきます。そのうちに関係が見えてくるでしょう。

静神社の紹介:その一その二

また、東国三社といわれる残りの神社の紹介はこちらで一度書いています。

息栖神社:その一その二その三

香取神宮:その一その二その三その四その五

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鹿島神宮 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/08/29 20:00
コメント
No title
こんにちは

Roman様のブログをおたずねすると いつも私の全く持っていなかった知識の扉を開き 歴史も地理も天文学も 多くの学びを頂き 目から鱗と思うことが沢山あり興味深く大切に拝見しています。

その中でも今回特に驚きましたのが
>遣唐使として中国の唐に派遣された阿倍仲麻呂は遠く異国の地でふるさとの方を眺めながら詠んだと言われる

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

の歌は当時の情勢ならば当然都である奈良の春日、三笠山でしょう。でもその故郷はこの鹿島の地にあるのです。

「その故郷はこの鹿島の地にあるのです」衝撃でした。
何も考えたこともなく 全く自然に奈良の地に思いを馳せつつ良く口にしておりました。


今日も本当に有り難うございます。

言の葉IS さま
いつも温かくコメントうれしいです。

私のブログも3年を過ぎマンネリにもなりかけていますが、こうしてコメントをいただくとまた励みになります。

> その中でも今回特に驚きましたのが
> 「その故郷はこの鹿島の地にあるのです」衝撃でした。

言の葉さんはとても素直な御考えをお持ちなのでこんなところに反応されたのでしょうね。

「三笠の山に出でし月かも」のもっているイメージをこのように書くときっと余計な事を書くなと
反発される方が多いでしょうね。
歌の意味は奈良の都ですものね。ただ藤原氏が鹿島を大切にしていたことも事実なんです。

長い歴史に中でうわべだけでは測れないものが隠れていたりするものです。
そんなものを見つけると書いておきたくなるのも困ったものです。
学校の教科書では教えてくれませんからね。

いろいろ調べるから物事は楽しいんですよね。

今日もありがとうございました。
また何時も拍手にランキングクリックありがとうございます。

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