FC2ブログ

赤穂浪士(2)

 今朝は久しぶりに冷え込み車も霜で真っ白でした。
こんな日は筑波山がきれいです。
先日書いたように下り坂の先に急に筑波山が見えると美しさにハッとします。

 さて、今日も赤穂浪士討ち入りの話の続きです。
赤穂浪士が討ち入りした吉良邸は元禄14年8月19日に呉服橋内から本所(現両国3丁目)の松平家の屋敷へ屋敷替となったのですが、理由は良くわかりません。
討ち入りをし易くしたのではなどともいわれています。

さて今日は、この引っ越し後の本所吉良邸の隣りにいた土屋逵直(なおみち)と土浦藩の土屋家の関係について調べてみました。
討ち入りの際に、赤穂浪士の求めに対し、吉良家には加勢しないことを約束し、灯りを掲げ、堀を越えてくる者がいたらば矢で射てと命じ討ち入りの手助けをしたということで知られています。

 この土屋家の祖先は武田信玄・勝頼に仕えた「片手千人斬り」の逸話でしられる土屋昌恒なのです。
昌恒は武田勝頼に殉じて亡くなりますが、その子忠直が土屋家の存続を許され、相模3千石を拝領し、その後出世して久留里藩(現千葉県君津市)2万石に出世します。
しかし、その2代後の土屋直樹が狂気の振る舞いがあるとして藩を取り上げられてしまいます。
その長男が吉良邸隣りに住んでいた土屋逵直で、3000石の旗本寄合として家督を継いでいたものです。

では土浦の土屋家との関係ですが、これは分家になります。
久留里藩2代目土屋利直の弟土屋数直(土屋忠直の次男)は徳川家光に仕え、徐々に頭角を現し、出世して若年寄まで出世します。
土浦は戦国時代に小田氏の居城でありましたが、江戸時代に入り藩主は幾度となく変わりました。
そこに1662年に土屋数直が1万石で入り、その後年寄りまで栄進し、4万5千石まで加増されています。
数直はほとんど江戸詰めと言われていますが、かなりの文化人としても知られているようです。

土屋家は2代目で一旦土浦から出ますが、またすぐに再任されて土浦藩はこの土屋家が長い間治めることになりました。

忠臣蔵の映画やドラマを見ていると必ずこの隣りの土屋家が出てくるのですが、こんな関係があったのですね。
色々なことを知ってみるとドラマの面白味も倍増しそうです。

 さて、私は新潟県の生まれですが、母方の里が長岡にあり子供の時には毎年夏に出かけていました。
この長岡藩は牧野家なのですが、笠間の浅野家が赤穂に移動した後に、この牧野家の分家が笠間に入りました。
このことを知ったのはまだ5年ほど前のことです。
意外に関係があるものですね。
 

仇討ち | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/17 19:21
コメント

管理者のみに表示