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曾我兄弟の仇討

今日は冬の関東らしくカラリと晴れ久しぶりにスッキリした休日となった。
しかし、何処も行かずにノンビリ過ごした。

昨日まで赤穂浪士と常陸の関係を少し書いたが、この中で笠間出身の堀部弥兵衛のことを紹介しました。
この娘婿が堀部安兵衛である。
堀部安兵衛を有名にしたのは高田馬場の決闘で助太刀に駆けつけ数人を切り倒したとして有名になったのですが、この時は中山安兵衛といいました。

決闘のうわさがたちまち江戸中に知れ渡り、これを聞いた堀部弥兵衛が娘の婿に迎えたのです。
しかし、この決闘の話は後に尾ひれがついて美化されたり、親の敵であったり話はいろいろに変化していきます。
元をたどると伊予西条藩の二人が喧嘩をして決闘をすることになり、助っ人が足りなくなり友人の手助けしたようです。
でもさぞかし強かったのでしょうね。少なくても3人は切り倒しているようです。

話は変わりますが、今日は富士の裾野での曾我兄弟の仇討ちと石岡の関係を少し紹介しましょう。
これは、赤穂浪士の仇討、伊賀越えの仇討と並ぶ日本三大仇討事件というそうです。
私も、昔子供の頃の読み物で読んだことがある程度しか知りません。

時代は鎌倉時代初期、源頼朝が富士に巻狩りに行った時に起きました。
「工藤祐経との所領争い雇った刺客に襲撃され、父を殺された兄弟が源頼朝の家臣となっていた工藤祐経を富士裾野で行われた頼朝の巻狩り(鹿や猪の狩りであるが、軍事訓練が目的)の時に親の仇討をした」
という内容ですが、この時にここ石岡が関係してくるのです。

常陸国には大掾(だいじょう)職(常陸介の下の位だが実質の統治職)を代々多気氏(義幹)が就いていたが、これを欲しい守護職八田氏(知家)がこの事件をきっかけに源頼朝に義幹に謀反の疑いがあると換言したのです。
曾我兄弟の仇討の後、源頼朝は自分も狙われたとのうわさもあり、また鎌倉に残っていた弟に野心の疑いがあったりし、大分疑心暗鬼になっていた時であり、すぐに大掾(多気)義幹は鎌倉に呼びつけられました。
義幹は申し開きがうまくできず、また八田の仕掛けた罠にはまって領地と大掾職を取り上げられてしまいます。
しかし、この職をねらっていた八田知家に大掾職はいかず、水戸の同じ家系の馬場氏に大掾職が渡りました。

石岡の人達はこの大掾氏が平国香より始まった、平家の子孫であると良く言います。
しかし、この平大掾職も一族ではなく、この時に変わっているのです。
もっとも平国香が没した後、家系を引き継いだ多気大掾の時代は約220年くらいですし、その後の大掾職についた馬場資幹がこの石岡の地(貝地)に「石岡城(外城)」を築き、約200年後に馬場詮国が旧国衙に府中城を築いて滅びるまで、馬場大掾は380年近く続いたのです。

ところで、多気義幹は曾我兄弟の仇討事件後に失脚しましたが、次男茂幹は芹沢氏(新撰組の芹沢鴨はこの一族)の祖となったというのも何か知ると面白いですね。
 

仇討ち | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/12/18 19:19
コメント
No title
こんにちは、
今回も読ませていただきました、
まだ読んでない興味有る物がたくさんありますので、
徐々に読ませていただきす、ありがとうございます。

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