大甕神社(1)-倭文神宮
鹿島神宮とその関係する神社などを15回に亘って紹介してきました。
そして、その結果訪ねて見たい場所が出てきてしまいました。
それが今日紹介する「大甕(おおみか)神社」です。
鹿島神宮の祭神「武甕槌(タケミカヅチ)命」と香取神宮の祭神「経津主(フツヌシ)神」は大和朝廷がこの日本国、特に東国を平定した時に最も活躍した武神でしょう。
そのため、現利根川・霞ヶ浦の入口の両側に絶対的な権力で祀られています。
しかし、この両神が従わせることができなかった部族がこの北に住んでいました。
星神香々背男(ホシノカカセオ)=天津甕星(あまつみかぼし)です。
神話では悪い神となっていますが、元々この地方の北一帯を治めていた星を頂く民族でした。
いまでも北の地の多くの「星宮神社」にこの神が祀られているようです。
鹿島神宮でも書きました(高房神社)が、楼門をはいって本殿・拝殿などは北を向いているのですが、この高房神社は楼門の方(西向き)を向いて建っています。
この神社が鹿島神宮の摂社の一つとなっており、常陸国二の宮「静神社」の祭神である「倭文神(しずりのかみ)」(建葉槌神(たけはづちのかみ))が祀られているのです。
建葉槌神(たけはづちのかみ)は武甕槌(タケミカヅチ)と経津主(フツヌシ)の最強の武神でも倒せなかった香々背男を倒すために使わされました。
そして、ついに日立市の手前の多賀山地でこの香々背男を倒したとされています。
倒したというよりは怨念も含めて岩山に封じ込め、岩山の上に神社を建てました。
それがこの大甕神社だということがおぼろげながら見えて来たのです。
そうとなったらやはり見て見ないと先に進めません。
鹿島神宮散策が済んですぐに行ってみました。
もう1カ月くらい前です。すっかり紹介するのが遅くなってしまいました。
午後まだ日が高いうちに到着したのですが、天候不順で雲行きが怪しくなって帰る頃には暗くなってしまいました。

六号国道(陸前浜街道)を勝田の方から北上すると、久慈川周辺は広い低地が広がっています。
川を渡ってしばらく行くと前に山並みが見えてきます。
大和朝廷の軍はこの川まで制圧してたのでしょうか。そしてその先に広がる山に住む香香背男という部族に手を焼いていたのかもしれません。
現在の大甕神社(おおみかじんじゃ)は6号国道で寸断されています。
神社の入り口には「大甕倭文神宮」と彫られています。
倭文(しず)とは織物です。常陸二の宮「静神社」も倭文
最初に建てられたのはもっと山の上の方だったと言います。
それを、現在の位置に移したのは1689年といいますから水戸光圀の時代で、隠居する前の年です。

大甕神社は光圀によって移転したのですが、その後の国道建設で2つに分断されてしまいました。
現在は6号国道側に入口が出来ていますが、元々の入口は少し海寄りの旧道から入る方が、昔の雰囲気を感じることができます。

裏山が迫っているため、拝殿前の境内はそれほど広くはありません。
しかし、この拝殿は物凄いエネルギーを感じるようです。
1695年に社殿が造営され、1933年に拝殿が造られたと書かれていましたが、この拝殿がそれなのでしょうか。
でもかなりすごい造りで、彫刻も見応えがあります。


こちらは拝殿なのですが、本殿は?
この裏山の岩山を少し登った岩盤の上に建てられています。(明日紹介します。結構登るの大変なんです。)

提灯の紋は「左三つ巴」。これは鹿島神宮の神紋と同じ。八幡神社も同じ。
平安時代にははやったようだが・・・・。ルーツは?

太い木が屋根を貫いて・・・。木を避けて屋根を造った。


儀式殿です。こちらは近代的な立派な建物です。

こちらが6号国道沿いの神社入り口です。
看板は「大甕神社」「大甕倭文神社」となっています。
旧道側の入口は「倭文神社」ではなく「倭文神宮」でした。
そして、その結果訪ねて見たい場所が出てきてしまいました。
それが今日紹介する「大甕(おおみか)神社」です。
鹿島神宮の祭神「武甕槌(タケミカヅチ)命」と香取神宮の祭神「経津主(フツヌシ)神」は大和朝廷がこの日本国、特に東国を平定した時に最も活躍した武神でしょう。
そのため、現利根川・霞ヶ浦の入口の両側に絶対的な権力で祀られています。
しかし、この両神が従わせることができなかった部族がこの北に住んでいました。
星神香々背男(ホシノカカセオ)=天津甕星(あまつみかぼし)です。
神話では悪い神となっていますが、元々この地方の北一帯を治めていた星を頂く民族でした。
いまでも北の地の多くの「星宮神社」にこの神が祀られているようです。
鹿島神宮でも書きました(高房神社)が、楼門をはいって本殿・拝殿などは北を向いているのですが、この高房神社は楼門の方(西向き)を向いて建っています。
この神社が鹿島神宮の摂社の一つとなっており、常陸国二の宮「静神社」の祭神である「倭文神(しずりのかみ)」(建葉槌神(たけはづちのかみ))が祀られているのです。
建葉槌神(たけはづちのかみ)は武甕槌(タケミカヅチ)と経津主(フツヌシ)の最強の武神でも倒せなかった香々背男を倒すために使わされました。
そして、ついに日立市の手前の多賀山地でこの香々背男を倒したとされています。
倒したというよりは怨念も含めて岩山に封じ込め、岩山の上に神社を建てました。
それがこの大甕神社だということがおぼろげながら見えて来たのです。
そうとなったらやはり見て見ないと先に進めません。
鹿島神宮散策が済んですぐに行ってみました。
もう1カ月くらい前です。すっかり紹介するのが遅くなってしまいました。
午後まだ日が高いうちに到着したのですが、天候不順で雲行きが怪しくなって帰る頃には暗くなってしまいました。

六号国道(陸前浜街道)を勝田の方から北上すると、久慈川周辺は広い低地が広がっています。
川を渡ってしばらく行くと前に山並みが見えてきます。
大和朝廷の軍はこの川まで制圧してたのでしょうか。そしてその先に広がる山に住む香香背男という部族に手を焼いていたのかもしれません。
現在の大甕神社(おおみかじんじゃ)は6号国道で寸断されています。
神社の入り口には「大甕倭文神宮」と彫られています。
倭文(しず)とは織物です。常陸二の宮「静神社」も倭文
最初に建てられたのはもっと山の上の方だったと言います。
それを、現在の位置に移したのは1689年といいますから水戸光圀の時代で、隠居する前の年です。

大甕神社は光圀によって移転したのですが、その後の国道建設で2つに分断されてしまいました。
現在は6号国道側に入口が出来ていますが、元々の入口は少し海寄りの旧道から入る方が、昔の雰囲気を感じることができます。

裏山が迫っているため、拝殿前の境内はそれほど広くはありません。
しかし、この拝殿は物凄いエネルギーを感じるようです。
1695年に社殿が造営され、1933年に拝殿が造られたと書かれていましたが、この拝殿がそれなのでしょうか。
でもかなりすごい造りで、彫刻も見応えがあります。


こちらは拝殿なのですが、本殿は?
この裏山の岩山を少し登った岩盤の上に建てられています。(明日紹介します。結構登るの大変なんです。)

提灯の紋は「左三つ巴」。これは鹿島神宮の神紋と同じ。八幡神社も同じ。
平安時代にははやったようだが・・・・。ルーツは?

太い木が屋根を貫いて・・・。木を避けて屋根を造った。


儀式殿です。こちらは近代的な立派な建物です。

こちらが6号国道沿いの神社入り口です。
看板は「大甕神社」「大甕倭文神社」となっています。
旧道側の入口は「倭文神社」ではなく「倭文神宮」でした。
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