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若松町の仇討事件

このブログも130回程になり、過去のブログを読みたいという方もでてきた。
うれしいことだ。 そこで、自分の整理もかねて今までのものを一覧表にまとめてみた。
左の項目のプロフィールの最後にURLへのリンクを貼ったので、もし興味がおありの方はクリックください。
一覧表が出ますので、興味のあるタイトル等がありましたらクリックして見てくださいね。

さて、昨日は赤穂浪士、曾我兄弟の仇討事件を書いたので、もうひとつここ石岡で起きた仇討事件について紹介しましょう。
この大事件は、幕末の安政三年(1856年)1月に府中平村若松町で起こりました。

ことのいきさつは越後(新潟県)新発田藩(10万石)で起きた事件がきっかけでした。
仇討事件の前年10月に新発田藩の飯島量平の母(49歳)が傍輩の飯島惣吉により殺害され、姉も深手の傷を負ってしまったのです。
そして惣吉は行方をくらまし逃げてしまったのです。
そこでまだ16歳であった飯島量平は母の仇討を藩に申し出て許可されます。
また当時江戸詰め藩士であった伯父榎本周吾も助太刀を申し出ます。
こうして、敵を探す旅に出るのです。
新発田から会津方面へ敵の消息を求めていきます。
そのうち、敵は米沢から仙台に行き、そこからまたいなくなったとの情報を聞き、三春、相馬、岩城、上田宿などを探しまわったといいます。
更に小名浜、中村、仙台、白石、福島、二本松、須賀川、棚倉、水戸と探してようやく手がかりを得たのです。
敵の惣吉が府中(石岡)宿香丸町で髪結床菊蔵のところに髪床職人になって身を隠していたことが判明したのです。

相手を確認して、見張っていると、追手に気がついた惣吉が夜中に逃げ出したため、町はずれで切り殺したのです。
この殺人は新発田藩の仇討許可証を持参していたため、仇討として認められ、丁寧に扱われたといいます。
相手の確認には新発田藩江戸の上屋敷から三人の使者が来たといいます。

また、その後、仇討をとげた飯島量平は新発田へ戻り、出世を果たしたといいます。
新発田藩から府中へは関係者に謝礼の金や礼状が届いたとそうです。

 仇討事件はテレビでは時々でてきますが、実際にはあまり多くはなかったのでしょうね。
このように遠いところから探しまわって本懐を遂げたのですから、話としては日の目を見ても面白いだろうと思います。

今日は仇討事件ついでに身近な事件を紹介しました。(石岡市史 下巻を参考にしました)
 

仇討ち | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/12/19 18:50
コメント
No title
こんばんは、
勝手ながらリンク入れさせて貰いました。

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