小高散歩(1)-小高城跡
今までに散歩シリーズでいくつかの場所を紹介してきました。
そのどこもあまり知られていないところでいろいろな発見がありました。
今回はそれよりも狭い範囲のところを散歩シリーズとして紹介して見たいと思います。
まああまり知られていないし、興味のない方にはつまらないことが多いのですが、私としては知られていない所の方が見つける楽しみがあってとても気に入っています。
今回選んだところはこれまた知られていない場所ではないでしょうか。
茨城県行方(なめがた)市は麻生町、玉造町と北浦町が合併して霞ヶ浦の北岸沿いと北浦の西側地域が入ります。
今回紹介しようとしているのは「小高」という地域で、旧麻生町の玉造町側に近い、ちょうど中間くらいの場所にあります。麻生と一緒にしてもいいのでしょうがここを別に取り上げることに少し意味があるように思います。
常陸国風土記の記述から紹介しましょう。
「郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。」(口訳・常陸国風土記)
原文:「郡南七里男高里 古有佐伯小高 為其居処因名 国宰当麻大夫時所築池 今存路東 自池西山猪猿大住艸木多密 南有鯨岡 上古之時 海鯨匍〓 而来所臥 即有栗家池 為其栗大 以為池名 北有香取神子之社也」
なぜ原文を載せたのかと言うと「常陸国守 当麻大夫」が「国宰当麻大夫」と書かれている。
国司のことを国宰(くにのみこともち)と書かれているので、7世紀前半くらいのことで、風土記が書かれる100年程前(今から1400年くらい前)の話のようです。
こんな古い話は散策してもあまり収穫はないのでまずは戦国時代あたり前後の様子を見てみたいと思います。
さて、まずはここに戦国末期まであった「小高城」の跡を訪ねました。

今は特に何もない畑や山の中にその遺構が残されているのですが、この薄れた看板がなければこの場所を見ても昔ここに城があったなんてわかりません。

詳しく知りたい方は説明文の写真をクリックして拡大して読んで下さい。
常陸大掾氏(だいじょうし)の一族がこの行方(なめかた)地方に郡司として入り、鎌倉時代になってその孫4人に領地を4つに分けて与えられ、行方四頭(行方、島崎、麻生、玉造)となった。
その長男行方(なめかた)氏(行方太郎)が小高に城をかまえて「小高氏」(長男であるので小高太郎ともいう)となった。
そう考えるとこの小高が行方郡の中心となったのだろうか。
でも今はまったくその姿をうかがい知ることは出来ない。
この小高氏も佐竹氏が府中(石岡)の本家大掾氏を滅ぼした後、常陸太田に呼び集められ殺されてしまった大掾一族33館の一つである。
どんなことがあったのだろうか。
佐竹氏も秀吉から常陸国を任されたとはいえ、これらの33館もの城主たちが呼び出されてもみな疑心暗鬼になっていたに違いない。
それなのに皆殺されたというのは毒殺なのか?
今後少しずつ調べて見たい。


内御城(うちみじょう)と呼ばれた辺りだろうか、城の中心だろう。山の中に畑が広がる。
エシャーレットが栽培されているとか。
この城跡から廻りを少し眺めていきたい。行方四頭は結構複雑で理解するには時間がかかりそうだ。
でも書かれているものを読むより現地で感じたものから理解を広げた方が頭に入りやすいようにも思う。
地図では道が良く分からないが、国道50号線の「小高」の信号をほんの少し石岡側に進んだところにある左に入る道を進めばその道が左に曲がる曲がり角に案内板が立っている。
← よろしければクリックお願いします。
そのどこもあまり知られていないところでいろいろな発見がありました。
今回はそれよりも狭い範囲のところを散歩シリーズとして紹介して見たいと思います。
まああまり知られていないし、興味のない方にはつまらないことが多いのですが、私としては知られていない所の方が見つける楽しみがあってとても気に入っています。
今回選んだところはこれまた知られていない場所ではないでしょうか。
茨城県行方(なめがた)市は麻生町、玉造町と北浦町が合併して霞ヶ浦の北岸沿いと北浦の西側地域が入ります。
今回紹介しようとしているのは「小高」という地域で、旧麻生町の玉造町側に近い、ちょうど中間くらいの場所にあります。麻生と一緒にしてもいいのでしょうがここを別に取り上げることに少し意味があるように思います。
常陸国風土記の記述から紹介しましょう。
「郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。」(口訳・常陸国風土記)
原文:「郡南七里男高里 古有佐伯小高 為其居処因名 国宰当麻大夫時所築池 今存路東 自池西山猪猿大住艸木多密 南有鯨岡 上古之時 海鯨匍〓 而来所臥 即有栗家池 為其栗大 以為池名 北有香取神子之社也」
なぜ原文を載せたのかと言うと「常陸国守 当麻大夫」が「国宰当麻大夫」と書かれている。
国司のことを国宰(くにのみこともち)と書かれているので、7世紀前半くらいのことで、風土記が書かれる100年程前(今から1400年くらい前)の話のようです。
こんな古い話は散策してもあまり収穫はないのでまずは戦国時代あたり前後の様子を見てみたいと思います。
さて、まずはここに戦国末期まであった「小高城」の跡を訪ねました。

今は特に何もない畑や山の中にその遺構が残されているのですが、この薄れた看板がなければこの場所を見ても昔ここに城があったなんてわかりません。

詳しく知りたい方は説明文の写真をクリックして拡大して読んで下さい。
常陸大掾氏(だいじょうし)の一族がこの行方(なめかた)地方に郡司として入り、鎌倉時代になってその孫4人に領地を4つに分けて与えられ、行方四頭(行方、島崎、麻生、玉造)となった。
その長男行方(なめかた)氏(行方太郎)が小高に城をかまえて「小高氏」(長男であるので小高太郎ともいう)となった。
そう考えるとこの小高が行方郡の中心となったのだろうか。
でも今はまったくその姿をうかがい知ることは出来ない。
この小高氏も佐竹氏が府中(石岡)の本家大掾氏を滅ぼした後、常陸太田に呼び集められ殺されてしまった大掾一族33館の一つである。
どんなことがあったのだろうか。
佐竹氏も秀吉から常陸国を任されたとはいえ、これらの33館もの城主たちが呼び出されてもみな疑心暗鬼になっていたに違いない。
それなのに皆殺されたというのは毒殺なのか?
今後少しずつ調べて見たい。


内御城(うちみじょう)と呼ばれた辺りだろうか、城の中心だろう。山の中に畑が広がる。
エシャーレットが栽培されているとか。
この城跡から廻りを少し眺めていきたい。行方四頭は結構複雑で理解するには時間がかかりそうだ。
でも書かれているものを読むより現地で感じたものから理解を広げた方が頭に入りやすいようにも思う。
地図では道が良く分からないが、国道50号線の「小高」の信号をほんの少し石岡側に進んだところにある左に入る道を進めばその道が左に曲がる曲がり角に案内板が立っている。


コメント