健武山神社-奈良東大寺に使われた金の記録
昨日取手山館について書いた時に、この周りの戦国末期の様子や城や館の配置を調べていた。
しかしかなり古いことでもあり、また負けた側にとっては多くが犠牲になり歴史も残っていかないようだ。
この問題はもう少し時間のある時に別なテーマでまた書く事にする。
今日は先日栃木県の雲巌寺に行った。この時に馬頭(現那珂川町)を通って行ったが、途中街道沿いにあった神社の前に掲げられた看板が目に付いた。
「ここが那須野ゆりがねの里」と書かれていた。神社の名前は「健武山(たけぶやま)神社」である。
馬頭の町から武茂川に沿って県道52号線で少し山側に入ったところだ。この神社は延喜式の式内社である。

この那珂川町(旧馬頭町)には町営の日帰り温泉施設「ゆりがねの湯」があり、昔近くに行った時に立寄り入浴した事がある。
その時にこの「ゆりがね」の由来を聞き調べたこともある。
それが今回この場所だったのだと知った。

神社は通りからこの石段を登ったすぐ上にある。

古木に覆われ、境内もそれほど広くはないがどっしりとした雰囲気がある。

創建は大同元年(806年)という。これは古い神社に行くと同じ年の創建が多い。
「ゆりがね」というのは金のことだ。
日本で産金が確認されている場所の最古の場所がここだと言う。これはあまり知られていない。

聖武天皇が全国の国分寺の総本山として奈良に東大寺を建立した。(8世紀前半)
この東大寺の大仏などに使う金が不足して困っていた。
そこにこの下野の地で金がとれることが伝わってきた。
そしてこの金が奈良の都に運ばれた。
これが日本の産金の最古という。それではそれまでは金はどうしていたのか?
東大寺よりも古いお寺としては、奈良に「百済寺(くだらじ)」があり、これは7世紀前半の建立とされている。

百済と倭(昔の日本)との関係は切っても切れないつながりがある。
紀元前18年に朝鮮半島南西部に百済国(十済)が出来たともいわれる(韓国などでの教科書)が、この頃はあまり国家としての形をなしていなかったようでもあり、はっきりしない。
ようはこの百済と倭国がかなり密接につながっていて、人の交流も盛んであった。
しかし、346年に近肖古王が即位し、385年に仏教が伝わり、660年に滅びてしまった。
そして百済から仏教やいろいろが技術も伝わってきた。
それと同時に多くの位の高い人びとが倭国に逃げて来た。

663年に起きた「白村江(はくすきのえ)の戦い」は百済・倭国連合軍と唐・新羅連合軍の戦いだったが、百済人が倭国(日本)に逃げてくるための戦いだったのかもしれない。
この時日本からは3万7千人程が戦に出陣している。
大敗したが、百済人の多くが日本に亡命した。
一方『日本書紀』では応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて(一説では18,760人)帰化したと記される弓月君(ゆづきのきみ)がおり、彼が秦の始皇帝の末裔とも称され、その後の秦氏の祖とされています。
新羅系なのか、百済系なのかこの辺りがはっきりしません。
でも大昔の日本で中国語が読めたり話せたりしたことを考えても、これらの帰化人がたくさんこの国にやって来ていたことはうかがい知ることが出来ます。

そして、大和朝廷も多くの百済からの亡命者を要人として採用し、蝦夷征伐にもかなり重要な役割を担い、多くの産業や薬の製法などもこの人びとから伝わっていったものと思う。
那須国の国造はこの帰化人の多くを受け入れたようだ。
そしてこの地(当時はまだ蝦夷地への最前線基地)に住み着いた。
そして産金技術もこの地に伝わったのだろう。
那珂川沿いに「那須国造の碑」が建てられているが、これはこの地にやって来て帰化した人々が感謝のために立てたものだと言う。(飛鳥時代の建造で国宝)

本殿。


「古代産金の里」の碑
古代産金としては宮城県遠田郡涌谷町に黄金山神社がありますが、ここも陸奥守百済王敬福が東大寺大仏の建立に黄金900両(13.5kg)を送ったそうですので、みな百済の王族が関係しているようです。
常陸国も初代常陸守として西暦700年に百済王遠寶が任命されています。


こちらの「健」の字は「徤」の字が使われています。
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しかしかなり古いことでもあり、また負けた側にとっては多くが犠牲になり歴史も残っていかないようだ。
この問題はもう少し時間のある時に別なテーマでまた書く事にする。
今日は先日栃木県の雲巌寺に行った。この時に馬頭(現那珂川町)を通って行ったが、途中街道沿いにあった神社の前に掲げられた看板が目に付いた。
「ここが那須野ゆりがねの里」と書かれていた。神社の名前は「健武山(たけぶやま)神社」である。
馬頭の町から武茂川に沿って県道52号線で少し山側に入ったところだ。この神社は延喜式の式内社である。

この那珂川町(旧馬頭町)には町営の日帰り温泉施設「ゆりがねの湯」があり、昔近くに行った時に立寄り入浴した事がある。
その時にこの「ゆりがね」の由来を聞き調べたこともある。
それが今回この場所だったのだと知った。

神社は通りからこの石段を登ったすぐ上にある。

古木に覆われ、境内もそれほど広くはないがどっしりとした雰囲気がある。

創建は大同元年(806年)という。これは古い神社に行くと同じ年の創建が多い。
「ゆりがね」というのは金のことだ。
日本で産金が確認されている場所の最古の場所がここだと言う。これはあまり知られていない。

聖武天皇が全国の国分寺の総本山として奈良に東大寺を建立した。(8世紀前半)
この東大寺の大仏などに使う金が不足して困っていた。
そこにこの下野の地で金がとれることが伝わってきた。
そしてこの金が奈良の都に運ばれた。
これが日本の産金の最古という。それではそれまでは金はどうしていたのか?
東大寺よりも古いお寺としては、奈良に「百済寺(くだらじ)」があり、これは7世紀前半の建立とされている。

百済と倭(昔の日本)との関係は切っても切れないつながりがある。
紀元前18年に朝鮮半島南西部に百済国(十済)が出来たともいわれる(韓国などでの教科書)が、この頃はあまり国家としての形をなしていなかったようでもあり、はっきりしない。
ようはこの百済と倭国がかなり密接につながっていて、人の交流も盛んであった。
しかし、346年に近肖古王が即位し、385年に仏教が伝わり、660年に滅びてしまった。
そして百済から仏教やいろいろが技術も伝わってきた。
それと同時に多くの位の高い人びとが倭国に逃げて来た。

663年に起きた「白村江(はくすきのえ)の戦い」は百済・倭国連合軍と唐・新羅連合軍の戦いだったが、百済人が倭国(日本)に逃げてくるための戦いだったのかもしれない。
この時日本からは3万7千人程が戦に出陣している。
大敗したが、百済人の多くが日本に亡命した。
一方『日本書紀』では応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて(一説では18,760人)帰化したと記される弓月君(ゆづきのきみ)がおり、彼が秦の始皇帝の末裔とも称され、その後の秦氏の祖とされています。
新羅系なのか、百済系なのかこの辺りがはっきりしません。
でも大昔の日本で中国語が読めたり話せたりしたことを考えても、これらの帰化人がたくさんこの国にやって来ていたことはうかがい知ることが出来ます。

そして、大和朝廷も多くの百済からの亡命者を要人として採用し、蝦夷征伐にもかなり重要な役割を担い、多くの産業や薬の製法などもこの人びとから伝わっていったものと思う。
那須国の国造はこの帰化人の多くを受け入れたようだ。
そしてこの地(当時はまだ蝦夷地への最前線基地)に住み着いた。
そして産金技術もこの地に伝わったのだろう。
那珂川沿いに「那須国造の碑」が建てられているが、これはこの地にやって来て帰化した人々が感謝のために立てたものだと言う。(飛鳥時代の建造で国宝)

本殿。


「古代産金の里」の碑
古代産金としては宮城県遠田郡涌谷町に黄金山神社がありますが、ここも陸奥守百済王敬福が東大寺大仏の建立に黄金900両(13.5kg)を送ったそうですので、みな百済の王族が関係しているようです。
常陸国も初代常陸守として西暦700年に百済王遠寶が任命されています。


こちらの「健」の字は「徤」の字が使われています。


雲巌寺は素晴らしいお寺でした。
またそのうち紹介したいと思います。