法龍寺-親鸞の孫「如信」が没した地
昨日紹介した旧上岡小学校から国道461号線(黒羽街道)を馬頭(那珂川町)や栃木県大田原市方面に1~2km程進んだところの旧道沿いに「法龍寺」がある。
この地が親鸞聖人の初孫である如信(にょしん)上人が入滅した場所だと知ってやってきました。
親鸞は1211年に越後での流罪から放免され、3年後の1214年に東国布教に旅立ちました。
善光寺や上野国などを経て、常陸国下妻市小島で草庵を結び、1216年には大山草庵、その後稲田の草庵で布教活動をしています。(親鸞と茨城の記事参照 → こちら)
そして約20年間の東国布教活動を弟子に任せて京に戻ったのは親鸞62~63歳頃だと言います。
しかし、東国では親鸞の教えが必ずしも正確には伝わらず、徐々にその考えから離れていきます。
これを嘆き、自分の直系である長男の善鸞と孫の如信を東国に派遣します。(1253年)
しかし、善鸞は親鸞の考えと違う東国の考え方に染まってしまい、とうとう親鸞は我が子である善鸞を絶縁し自分の正当な継承者から外してしまいました。(1256年)
(歎異抄は後に弟子が親鸞の教えをまとめた書物で、異教を嘆くという意味でしょう)
そのため孫の如信(当時如信はまだ21歳頃?)が親鸞の教えを正式に継承する事なりました。
この如信は常陸国よりさらに北へ布教を広げます。そして陸奥国大網(現、福島県石川郡古殿町)の草庵を拠点にかなり大きな布教集団を持つようになります。
この大網の草庵はその後「願入寺」となり茨城県の大洗に移っています。

この茨城県大子町上金沢の「法龍寺」は如信が布教の時にここに「太子堂」を建立しました。
その後を門弟の乗善房が引き継ぎ布教活動をしていました。

如信は親鸞の跡を継いだため、廟処である京都の吉水の北辺「大谷廟堂」(大谷本願寺跡)を継承していたがこちらは親鸞の末娘である覚信尼とその子覚恵に任せて、この北の地で布教活動を続けていました。
そして、この女性2人は何度も如信に京都に戻ってくれるように懇願していたと言います。
しかし、如信はこれを受け入れず、そのまま常陸国や陸奥国に残っていました。
そして年に1度の法要などで京に戻って来ていたようです。
そして1299年に報恩講のため如信は京都に戻る途中で乗善房にこわれて、この太子堂に立寄ります。
しばらく逗留して布教活動をしていたのですが翌年の1月4日に病のためこの地で急死してしまったのです。
年は66歳でした。

さて、親鸞の正当な継承者であった如信が急死したため、その跡を継ぐ人の指名がなされませんでした。
しかし、覚恵の子である覚如(かくにょ)が「大谷廟堂」を寺院化して「本願寺」(大谷本願寺)とし(1321年)、親鸞、如信、覚如と継承されていきます。
しかしこのあと東西に分裂してしまいます。
この(大谷)本願寺も1465年に比叡山の僧兵によって破却されてしまいます。

「榧(かや)」樹齢約720年。
如信がここに太子堂を建てた時(1289年)に自ら植えたものと言われているそうです。

こちらはカヤの隣にあるイチョウの木。
如信の13回忌法要の時に覚如が植えたものとのこと。


(銀杏の木)

← よろしければクリックお願いします。
この地が親鸞聖人の初孫である如信(にょしん)上人が入滅した場所だと知ってやってきました。
親鸞は1211年に越後での流罪から放免され、3年後の1214年に東国布教に旅立ちました。
善光寺や上野国などを経て、常陸国下妻市小島で草庵を結び、1216年には大山草庵、その後稲田の草庵で布教活動をしています。(親鸞と茨城の記事参照 → こちら)
そして約20年間の東国布教活動を弟子に任せて京に戻ったのは親鸞62~63歳頃だと言います。
しかし、東国では親鸞の教えが必ずしも正確には伝わらず、徐々にその考えから離れていきます。
これを嘆き、自分の直系である長男の善鸞と孫の如信を東国に派遣します。(1253年)
しかし、善鸞は親鸞の考えと違う東国の考え方に染まってしまい、とうとう親鸞は我が子である善鸞を絶縁し自分の正当な継承者から外してしまいました。(1256年)
(歎異抄は後に弟子が親鸞の教えをまとめた書物で、異教を嘆くという意味でしょう)
そのため孫の如信(当時如信はまだ21歳頃?)が親鸞の教えを正式に継承する事なりました。
この如信は常陸国よりさらに北へ布教を広げます。そして陸奥国大網(現、福島県石川郡古殿町)の草庵を拠点にかなり大きな布教集団を持つようになります。
この大網の草庵はその後「願入寺」となり茨城県の大洗に移っています。

この茨城県大子町上金沢の「法龍寺」は如信が布教の時にここに「太子堂」を建立しました。
その後を門弟の乗善房が引き継ぎ布教活動をしていました。

如信は親鸞の跡を継いだため、廟処である京都の吉水の北辺「大谷廟堂」(大谷本願寺跡)を継承していたがこちらは親鸞の末娘である覚信尼とその子覚恵に任せて、この北の地で布教活動を続けていました。
そして、この女性2人は何度も如信に京都に戻ってくれるように懇願していたと言います。
しかし、如信はこれを受け入れず、そのまま常陸国や陸奥国に残っていました。
そして年に1度の法要などで京に戻って来ていたようです。
そして1299年に報恩講のため如信は京都に戻る途中で乗善房にこわれて、この太子堂に立寄ります。
しばらく逗留して布教活動をしていたのですが翌年の1月4日に病のためこの地で急死してしまったのです。
年は66歳でした。

さて、親鸞の正当な継承者であった如信が急死したため、その跡を継ぐ人の指名がなされませんでした。
しかし、覚恵の子である覚如(かくにょ)が「大谷廟堂」を寺院化して「本願寺」(大谷本願寺)とし(1321年)、親鸞、如信、覚如と継承されていきます。
しかしこのあと東西に分裂してしまいます。
この(大谷)本願寺も1465年に比叡山の僧兵によって破却されてしまいます。

「榧(かや)」樹齢約720年。
如信がここに太子堂を建てた時(1289年)に自ら植えたものと言われているそうです。

こちらはカヤの隣にあるイチョウの木。
如信の13回忌法要の時に覚如が植えたものとのこと。


(銀杏の木)



コメント
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます