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石岡城と府中城

今日は天皇誕生日で世の中は皆さん休みだというのにわが社は仕事。
さすがに車は少なかったです。
ブログも半分くらいは休みに書いたり、夜書いたりしているのだが、公開するのも結構時間的にきつい。
紹介の内容も乏しくなってくるがお許し願いたい。
 
 今日は石岡の歴史の紹介で良く間違えてしまう二つの城の話です。
歴史を紐解いていて、私もよくわからないので間違っているかもしれません。

平国香を祖とする桓武平氏の血を引き継いだ常陸大掾氏。
平将門の乱が平定されたあと、大掾職についた多気維幹(これもと)はつくばの水守(みもり)城にいたが、この時(西暦990年頃)多気城(つくば市)を築いたという説がある。
私の理解もあやふやだが・・・。

すなわち、この頃は石岡の地に城はなく、石岡は政務をつかさどる官庁のような場所であったと思われます。

ところが、前にも書いたように曾我兄弟の仇討事件を利用した八田知家の換言で多気大掾6代目で失脚し、大掾職は水戸の吉田氏に渡ります。
吉田氏も元々同族ではありますが、水戸の馬場の近くに住んでいたので馬場氏と呼ばれるようになります。

この初代馬場大掾資幹(すけとも)は1195年頃に水戸に今の水戸城の元となる馬場城を築きます。

この後、1214年に鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えました。
これが「石岡城」であり、場所は貝地の霞ケ浦寄りになります。

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この城が馬場大掾氏の居城となったわけですが、最初は馬場城(水戸城)と2か所の居城を有しており、政務は主にこちらの石岡城が中心となり、水戸とは行ったり来たりをしていたものと思われます。
規模もかなり大きなもので水戸と同じくらいであったといわれ、城郭なども作られたといいます。

しかし、馬場大掾8代目馬場詮国が正平年中(1346~51)に国衙の地(現石岡小学校敷地)に府中城を築きます。これは大変強固なもので当時の足利将軍との関係を強化し、兵力も増強したようです。

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この時以前の「石岡城」もまた大掾氏の城の一部として使われ、外城(とじょう)と呼ばれています。

なぜ、くどくどと紹介する気になったのかはどうもこの府中城&石岡城についてもう少し評価が高くてもよいはずだと思えるためです。
そして、府中城と石岡城の関係も少し認識を新たにした方が良いように思います。
もっとも石岡城については「石岡の歴史」などの書物ではあまりふれられていません。記録があいまいな部分が多いようなので・・・。また石岡城という名前もあまりはっきりしません。
記録には少し出てくるようなので、明治維新で石岡の名前が使われたのでしょう。

石岡の地名については諸説あり、この石岡城という名前もあてにならないが、外城(とじょう)と呼ばれる前の城に名前がないのも困るのでとりあえず「石岡城」と呼んでいる程度に考えておくしかないでしょう。
地名の方は「こくふ」→「石阜」→「石岡」だという説が正しいとも伺ったことがありますが、これも本当といえるかどうかはわかりません。

地元でも、もう少し研究を深めて、当時の城の規模がどのようなものであったのかを検証すべきだと思っています。
今のままでは府中城を石岡城と言っても特に何も疑問に思わない人があふれてしまうでしょう。

府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城といわれ、町全体が城壁、掘りで守られたような形となっており、城内がすなわち町内となっていたものと思われます。

このため、街全体が平和に長く暮らせたものと解釈できます。
このような城は他にはほとんどないのです。

馬場大掾氏は水戸城(馬場城)を江戸氏に奪われ、中心となった府中城も段々と包囲網が厳しくなって最後は佐竹氏に滅ぼされます。

ここ石岡(府中)は1590年まで長い間、常陸の中心の都市として光を放っていたはずなのです。
「昔をことだから関係ない」などとせずに、もう少し誇って、皆に知ってもらっても良いのではないでしょうか。
 

石岡市内 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/23 19:27
コメント
No title
こんにちは。
今日はここまで読ませていただきました。
Re: No title
毎回ありがとうございます。
ひたちなかの写真も楽しませていただいています。

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