小高散策(4)-常行院
この常光院は小高城(こちら)のすぐ西側にある。
この城の小高氏が佐竹氏により滅ぼされた後に、この地には佐竹氏が入り、自分の地元の寺をここに持ってきて菩提寺にした。
しかし、この場所には元々は小高氏の菩提寺である皇徳寺があった。
この常光院は常陸太田の佐竹家15代当主である佐竹義舜(よしきよ)が開基したとされている。
義舜は15代当主であるから、戦国武将として名をはせた佐竹義宣(よしのぶ)(19代当主)とその父義重(よししげ)(18代)より前で、佐竹氏が存亡の危機にあった時でもあるといいます。
この常光院はこの地に移る100年ほど前に建てられたようですが、何処に最初に建てられたのかは書かれたものが見つかりませんでした。
常光院を調べて見ると、常陸太田にもあり、佐竹氏が移った秋田の角館にもある。
この角館の常光院は佐竹北家菩提寺だといいます。
しかし常光院という寺は全国にたくさんあり、石岡市内の金丸町にもあります。農具万能の発明者である万能の墓がある寺です。

山門(市の文化財)が歴史を物語っているようだ。

火災で建てなおされているが室町様式の門だそうだ。


佐竹氏の家紋の「扇に月丸」が色鮮やかについている。
この家紋については次のような逸話が伝わっている。
「源頼朝の加勢に参じた源氏の血を引く佐竹氏が無地の白旗を持って駆け付けた。
そこで頼朝はそれではさみしいからと手に持った扇に丸い月を書いて手渡した。」

この地の小高氏も府中(石岡)の大掾氏が滅ぼされた後、他の大掾氏族(全部で33館)の城主が1591年に常陸太田に呼び集められて皆殺しにされた。毒殺だったのかははっきりしない。
その時に残ったこの城の家臣たちは戦う者と佐竹氏に従う者に分裂したようだ。
結果は他の地と同様に秀吉からこの地の支配の確約状を得ていた佐竹氏に制圧された。
そこにどのような軋轢があったのだろうか。
この城に籠って戦った者、自害して果てた者、降伏して従った者などさまざまな人生があったはずだ。
石岡にいるとこの辺りが分からない。

山門から本堂までかなり広い境内を持つ。この辺りは、それ程多くの人家がある場所でもない。


裏の墓地へまわって見るとすぐそこにこの寺の住職歴代の墓が並ぶ。

そして、さらに奥に進むと古びた墓が置かれていた。
五輪塔と思ったが三輪しかない。
一つ大きな墓はだれの墓なのだろう?
庭の方に戻ってそこにいた掃き掃除作業していた方に聞いてみた。
「この寺の佐竹公の墓だといわれているみたい」
との返事。時代としても戦国末期よりは古そうな気がする。
佐竹義舜公なのかもしれない。
10年程で佐竹氏は秋田に転封されたが、ここにいた家臣の18人が残り、この寺を守ってきたという。
← よろしければクリックお願いします。
この城の小高氏が佐竹氏により滅ぼされた後に、この地には佐竹氏が入り、自分の地元の寺をここに持ってきて菩提寺にした。
しかし、この場所には元々は小高氏の菩提寺である皇徳寺があった。
この常光院は常陸太田の佐竹家15代当主である佐竹義舜(よしきよ)が開基したとされている。
義舜は15代当主であるから、戦国武将として名をはせた佐竹義宣(よしのぶ)(19代当主)とその父義重(よししげ)(18代)より前で、佐竹氏が存亡の危機にあった時でもあるといいます。
この常光院はこの地に移る100年ほど前に建てられたようですが、何処に最初に建てられたのかは書かれたものが見つかりませんでした。
常光院を調べて見ると、常陸太田にもあり、佐竹氏が移った秋田の角館にもある。
この角館の常光院は佐竹北家菩提寺だといいます。
しかし常光院という寺は全国にたくさんあり、石岡市内の金丸町にもあります。農具万能の発明者である万能の墓がある寺です。

山門(市の文化財)が歴史を物語っているようだ。

火災で建てなおされているが室町様式の門だそうだ。


佐竹氏の家紋の「扇に月丸」が色鮮やかについている。
この家紋については次のような逸話が伝わっている。
「源頼朝の加勢に参じた源氏の血を引く佐竹氏が無地の白旗を持って駆け付けた。
そこで頼朝はそれではさみしいからと手に持った扇に丸い月を書いて手渡した。」

この地の小高氏も府中(石岡)の大掾氏が滅ぼされた後、他の大掾氏族(全部で33館)の城主が1591年に常陸太田に呼び集められて皆殺しにされた。毒殺だったのかははっきりしない。
その時に残ったこの城の家臣たちは戦う者と佐竹氏に従う者に分裂したようだ。
結果は他の地と同様に秀吉からこの地の支配の確約状を得ていた佐竹氏に制圧された。
そこにどのような軋轢があったのだろうか。
この城に籠って戦った者、自害して果てた者、降伏して従った者などさまざまな人生があったはずだ。
石岡にいるとこの辺りが分からない。

山門から本堂までかなり広い境内を持つ。この辺りは、それ程多くの人家がある場所でもない。


裏の墓地へまわって見るとすぐそこにこの寺の住職歴代の墓が並ぶ。

そして、さらに奥に進むと古びた墓が置かれていた。
五輪塔と思ったが三輪しかない。
一つ大きな墓はだれの墓なのだろう?
庭の方に戻ってそこにいた掃き掃除作業していた方に聞いてみた。
「この寺の佐竹公の墓だといわれているみたい」
との返事。時代としても戦国末期よりは古そうな気がする。
佐竹義舜公なのかもしれない。
10年程で佐竹氏は秋田に転封されたが、ここにいた家臣の18人が残り、この寺を守ってきたという。


コメント