小高散策(5)-福岡観音

 一昨日書いた「常光院」に行く道の途中に小さなお堂が置かれており、「福岡観音」と書かれています。

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ここに来る前の国道355号線の道路沿いには前に紹介した「橋門の阿弥陀様」(こちら)もあり、一般の民家の庭にも如来像や子安観音像などが置かれているところも見かけた。

とても信仰が篤いところなのかもしれない。

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何処にでもあるような小さなお堂なので、地蔵さんでも置かれているのかとも思いましたが、ここの説明を読んで、ここの小高城が滅びた時の内容の一部が見てとれました。

このような記録がとても少ないのです。

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この場所は砂利採取計画が立てられた時に古墳などの埋蔵物の発掘調査が行われました。
そして、発掘の結果、古墳ではなく約400年前、小高城落城のときに自害した城主の奥方とその腰元達の霊を慰めるために祀つた観音堂基段跡と推定されたのです。

 1590年12月に石岡(常陸府中)の大掾氏が滅びたが、その翌年の2月に近隣の33館の城主が、佐竹義重に常陸太田に集められた。そして皆殺しにされた。

城主を突然失った元の33か所もの城では何が起こったのだろうか? 
興味があるのだがほとんどが記録から消えて残っていない。


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しかし、ここには突然城主を失い、敵に蹂躙された城で何があったかを知るきっかけともなる出来事が残されている。

主を失い、その奥方、腰元6人がこの場所で自害した。
そしてそれから100年後に、これを供養する観音堂が地元の人々の手で建てられた。

そして安産・子育に御利益のある観音様として祀られてきた。

しかし、それもいつの間にか埋もれて消えてしまっていた。
それをまた復活して昔の確執を融和するためにお堂が建てられた。

そんな悲しいけど人びとの思いが詰まったお話が書かれていたのです。

また発掘調査では、この堂の跡の下から、縄文早期の炉跡が発見され、小高氏がここに来るずっと前には縄文人たちが住んでいたのです。

この縄文人たちの名前が「小高(おだか)」なのです。
常陸風土記では小高という佐伯と書かれています。

まだまだわからないことが多いです。

行方四頭の一頭である小高氏ですが、この城が佐竹氏により滅ぼされる(1591年)前の1546年に、小高直幹は小田政治と手を組んで府中の大掾慶幹を攻撃した。
しかし、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取したとある。

そうするとこの1591年に滅びた時はすでに府中の大掾氏の直接の支配にあったのだろうか。
その府中との間には小川の園部氏がいる。

これも江戸氏や佐竹氏と手を組んだりしておりかなり複雑だ。

あせらずともそのうちに分かる時も来るだろう。
どうも私が知りたいのは歴史の事実そのものではないのかもしれない。

ノンビリやろう。

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小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/10/27 17:57
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