井上神社(行方市)
小高地区はとりあえず終わりで、少し石岡よりの西蓮寺近くにやってきました。
行方市の玉造地区井上にある「井上神社」に行ってきました。
井上などという比較的よく使われる地名や苗字なのであまり気に留めていなかったのですが、ここはヤマトタケルの井戸(玉清井)のすぐ上にあるという意味から付けられた名前で昔から使われてきた名前だと思われます。

霞ヶ浦の北岸を走る国道355号線の少し山側を走る旧道(183号線)を玉造から麻生の方に進み、西蓮寺への入口を少し進んだところに「井上」の信号がある。
ここから内陸側に曲がって少し坂を登って行くと道沿いに「井上神社」がある。
この井上神社は鬱蒼とした木々に覆われており、道路の反対側には広い駐車場も完備しています。

鳥居をくぐると前に狛犬と拝殿が見えますが、その手前に青いビニールをかけた場所がで~んと置かれています。

これは明らかに相撲の土俵ですね。
今でも奉納相撲が行われているのでしょうか。

少し調べてみました。
この神社では毎年、無病息災を祈願して奉納相撲が江戸時代頃から行われてきたようです。
今では毎年10月10日に相撲甚句などが披露され、地元の消防団や保育園児などによって相撲大会が行われているそうです。


この神社の本殿が、市の文化財に指定されています。
説明板には「祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)であったが、誉田別名命(ほむたわけのみこと)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の2柱が合祀された。」
と書かれております。
彦火火出見尊は「山幸彦」のことで、鸕鶿草葺不合尊はこの山幸彦と海の神「豊玉姫」の子供です。
共に九州の日向の神様なのです。
銚子の方には有りましたが、この辺りの神社にはあまり祀られていない神様です。
誉田別名命は応神天皇のことで八幡神社の祭神です。倉稲魂命は穀物の(女)神で伊勢神宮でも内宮の食糧倉庫などの御稲御倉(みしねのみくら)の神様です。
これは後から下河辺氏の八幡神社を持ってきたというので、二つの神社が一緒になったもののようです。
下河辺氏は佐竹氏のこの地方を制圧した時に麻生城に派遣されました。
元々は藤原秀郷の流れをくむ人物かもしれません。
この下河辺氏がやって来て八幡神社をここに合祀したのでしょう。
これにより元からの神社(日向神)は影が薄くなったのかもしれません。

八幡神社も古く、建保(けんぽう)元年(1213年)は鎌倉時代です。
恐らく合祀されたのは1600年より少し前の頃でしょうか。

この元々ある井上神社は「社伝では坂上田村麿呂が奥羽征伐の際戦勝を祈願したとされます。」と書かれていますが、これはこの辺りの多くの神社が同じ時期に田村麻呂に合わせて作られており、話も何処まで真実かはわかりません。
しかし、神社の名前は平凡そうですが奥の深い神社だと思います。
本殿の棟札には、「享禄2年(1529年)8月、地頭下河辺治親他郷士・・・」とあるといいますので、この本殿も侮れません。
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行方市の玉造地区井上にある「井上神社」に行ってきました。
井上などという比較的よく使われる地名や苗字なのであまり気に留めていなかったのですが、ここはヤマトタケルの井戸(玉清井)のすぐ上にあるという意味から付けられた名前で昔から使われてきた名前だと思われます。

霞ヶ浦の北岸を走る国道355号線の少し山側を走る旧道(183号線)を玉造から麻生の方に進み、西蓮寺への入口を少し進んだところに「井上」の信号がある。
ここから内陸側に曲がって少し坂を登って行くと道沿いに「井上神社」がある。
この井上神社は鬱蒼とした木々に覆われており、道路の反対側には広い駐車場も完備しています。

鳥居をくぐると前に狛犬と拝殿が見えますが、その手前に青いビニールをかけた場所がで~んと置かれています。

これは明らかに相撲の土俵ですね。
今でも奉納相撲が行われているのでしょうか。

少し調べてみました。
この神社では毎年、無病息災を祈願して奉納相撲が江戸時代頃から行われてきたようです。
今では毎年10月10日に相撲甚句などが披露され、地元の消防団や保育園児などによって相撲大会が行われているそうです。


この神社の本殿が、市の文化財に指定されています。
説明板には「祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)であったが、誉田別名命(ほむたわけのみこと)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の2柱が合祀された。」
と書かれております。
彦火火出見尊は「山幸彦」のことで、鸕鶿草葺不合尊はこの山幸彦と海の神「豊玉姫」の子供です。
共に九州の日向の神様なのです。
銚子の方には有りましたが、この辺りの神社にはあまり祀られていない神様です。
誉田別名命は応神天皇のことで八幡神社の祭神です。倉稲魂命は穀物の(女)神で伊勢神宮でも内宮の食糧倉庫などの御稲御倉(みしねのみくら)の神様です。
これは後から下河辺氏の八幡神社を持ってきたというので、二つの神社が一緒になったもののようです。
下河辺氏は佐竹氏のこの地方を制圧した時に麻生城に派遣されました。
元々は藤原秀郷の流れをくむ人物かもしれません。
この下河辺氏がやって来て八幡神社をここに合祀したのでしょう。
これにより元からの神社(日向神)は影が薄くなったのかもしれません。

八幡神社も古く、建保(けんぽう)元年(1213年)は鎌倉時代です。
恐らく合祀されたのは1600年より少し前の頃でしょうか。

この元々ある井上神社は「社伝では坂上田村麿呂が奥羽征伐の際戦勝を祈願したとされます。」と書かれていますが、これはこの辺りの多くの神社が同じ時期に田村麻呂に合わせて作られており、話も何処まで真実かはわかりません。
しかし、神社の名前は平凡そうですが奥の深い神社だと思います。
本殿の棟札には、「享禄2年(1529年)8月、地頭下河辺治親他郷士・・・」とあるといいますので、この本殿も侮れません。


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