栗原掃部衛門碑
小美玉市の希望ヶ丘公園にこの「栗原掃部衛門碑(くりはらかもえもんひ」があるとtroyさんのブログで知って見に行ってきました。
先日常陸大掾(だいじょう)氏の滅亡した頃の事を書いてきましたが、小川の手前の取手山館の攻防では、北方の江戸氏の侵入を防ぐために大掾氏四男が竹原に城を築くと共にこの取手山でも小川の園部氏と対立していた。
この竹原氏の部下で四天王の一人と言われたという栗原氏が永禄4年(1561年)に父母の供養のために阿弥陀如来三尊の石碑を建立したものだという。

石碑とその隣の栗原慈母観音堂

板碑の釈迦如来三尊像の線刻は長い年月で割れたりして修理されてはいるが良く読むことが出来る。

竹原氏については良く分かっていないことが多く1590年の大掾氏滅亡の時に一緒に滅んだと考えられている。
しかし、その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵に名前が出てくるともいわれており、佐竹氏側に付いたのかもしれない。
江戸氏が堅倉に砦を築き、それに対抗して竹原に城を築いたのが永禄2年(1559年)といわれるようなので、この石板碑が作られたのはその2年後ということになる。
1590年12月に府中大掾氏が佐竹氏に滅ぼされたときに、この竹原城も陥落したはずである。
この板碑がどのようにして残されてきたのか興味は尽きないが・・・・。

この希望ヶ丘公園は高台にあり恐らく竹原氏が城を築いた場所ではないかと思う。
広い運動場なども整備され、大きな団地も出来、憩いの場所にもなっている。
またコスモス畑も有名らしい。
以前は通りからも一面のコスモス畑が広がっていたのだが最近はあまり見ていない気もする。
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先日常陸大掾(だいじょう)氏の滅亡した頃の事を書いてきましたが、小川の手前の取手山館の攻防では、北方の江戸氏の侵入を防ぐために大掾氏四男が竹原に城を築くと共にこの取手山でも小川の園部氏と対立していた。
この竹原氏の部下で四天王の一人と言われたという栗原氏が永禄4年(1561年)に父母の供養のために阿弥陀如来三尊の石碑を建立したものだという。

石碑とその隣の栗原慈母観音堂

板碑の釈迦如来三尊像の線刻は長い年月で割れたりして修理されてはいるが良く読むことが出来る。

竹原氏については良く分かっていないことが多く1590年の大掾氏滅亡の時に一緒に滅んだと考えられている。
しかし、その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵に名前が出てくるともいわれており、佐竹氏側に付いたのかもしれない。
江戸氏が堅倉に砦を築き、それに対抗して竹原に城を築いたのが永禄2年(1559年)といわれるようなので、この石板碑が作られたのはその2年後ということになる。
1590年12月に府中大掾氏が佐竹氏に滅ぼされたときに、この竹原城も陥落したはずである。
この板碑がどのようにして残されてきたのか興味は尽きないが・・・・。

この希望ヶ丘公園は高台にあり恐らく竹原氏が城を築いた場所ではないかと思う。
広い運動場なども整備され、大きな団地も出来、憩いの場所にもなっている。
またコスモス畑も有名らしい。
以前は通りからも一面のコスモス畑が広がっていたのだが最近はあまり見ていない気もする。


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