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立野神社(谷津の明神さま)

 石岡から城里町の石塚を結ぶ通称石塚街道(県道52号線)は赤塚のイーオン脇を抜け先日紹介した「くれふしの里古墳公園」近くから山間の細い道を通って「木葉下(あぼっけ)」の信号に出ます。

この山の中に隠れたようにこの神社がありました。
この辺りを通るとなんだか変な霊感を感じるような場所です。

案内も何も置かれていないので通りからわずかに見えた神社の建物らしきところへ行ってみました。


(写真はクリックすると拡大します)
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「立野神社」(たてのじんじゃ)と書かれています。
この名前で思い出しました。
この道をどんどん進んで桂大橋で那珂川を渡ってさらに北に進んだ緒川というところに同じ名前の神社があることを。

こちらは式内社と言われているのです。(昔書いた記事:こちら

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この緒川の立野神社は「物部氏の族立野の連が御鎮斎したと伝えられる」と書いたのです。

式内社が本当はどこなのかとか、途中で二つや三つに分かれたりすることも多いので、かなり離れていますが元は同じ神社だったのかもしれません。

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この説明ではまったくよくわかりません。

大同二年九月の創建と伝えられ、緒川の立野神社と同じように「鹿島社」と呼ばれたともいう。

那賀郡の式内社としては「藤内神社」があり、新編常陸國誌ではこちらの立野神社も式内社「藤内神社」の論社(後裔と推定される神社)だとされている。

もちろん藤内神社は水戸市藤井町に鎮座しているが、この立野神社や近くの有賀神社なども論社と言われる。

この辺りをもう少し調べると「藤井」がヘビ?なのかとか、木葉下(あぼっけ)がどういう意味なのかとかがわかってきそうでもある。
良く言われるアボッケの発音からパッケ、ポッケなどアイヌ語での崖地を表す言葉というのは現地に行ってみるとあたっていないように思う。

朝鮮半島からやってきた種族がこの辺りで焼き物を焼いていたのかもしれないということも発掘調査などをしないとはっきりしないだろう。(朝鮮半島南部の昔の言葉で「焼き物を焼く人が住む里」ということとの説がある)



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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/26 21:40
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