利根川河口堰と常陸利根川水門
霞ヶ浦は昔は海だった。
それもそれ程昔ではない。
香取の海、流れ海などと呼ばれていた頃はとてつもなく広い内海だった。
江戸時代になり、江戸の街を水害から守るため、暴れ川であった利根川を江戸湾から銚子の方に流れを変える大事業が行われた。
しかしその後も霞ヶ浦には海水が出入りする汽水湖となり、魚も海・川・湖などのすべての魚が豊富で、江戸の台所にも欠かせない魚の宝庫だった。

しかし、米作りがどうしても日本の食糧生産に欠かせないと、米栽培が優遇されると共に、霞ヶ浦沿岸ではそれまで何度も水害に苦しんでいた人びとの願いから2つの水門が作られた。
設けられたところは利根川と常陸川が合流する手前で、銚子から15km程手前である。
霞ヶ浦から海に流れる川が常陸川だ。
水門は利根川の入口と常陸川の入口にそれぞれ設けられ、同じように動いているように見えるがまったく動きは別々であるようだ。

利根川河口堰。
千葉県東庄町側から茨城県神栖市側を見たところ。
昭和46年1月に総工費125億円をかけ完成。
HPによると目的は2つ・・・塩害防止と東京の飲料水の確保(江戸川に送水)
こちらの利根川の水門は完全に利根川沿岸の水田などの塩害を防止するのが目的だが、これに大東京の水源確保という目的が付加された。

利根川にかかる水門の橋は「利根川大橋」という。
すぐ先に霞ヶ浦と繋がる常陸利根川が隣接しており、常陸川水門は利根川に設けられた水門より少し短いが、この目的は霞ヶ浦の治水(利根川の水位が高くて霞ヶ浦に水が逆流するのを防ぐ)が最大の目的で昭和38年(1963年)5月に18億円で完成した。

(常陸川水門)
確かにそれまで霞ヶ浦沿岸では多くの水害が発生しており、水門設置と護岸の整備で水害は大幅に減ったので、その効果があったということになる。
しかし、この水門が完成してから10年間は水害の恐れがある時のみ閉じて通常は水門を開けていたのであるが、1974年に水位が霞ヶ浦側の水位が高い時のみ開けるという方式に変えたのである。
これにより海水や利根川からの水が常陸川に入ることがなくなり、完全閉鎖と同じ状態になってしまった。
このため、霞ヶ浦は徐々に首根っこを押さえられて死の湖に変わって行ったのである。
塩害が問題だと水門を閉じ、また、鹿島臨海工業地帯の水源確保などの名目も加えられて行ったが、こちらは目的のような使われ方をしていない。
塩害の影響がどの程度及ぶかの検証も不十分で、何時までもこのままでは生態系は完全に破壊されてしまう。
現在国会でもこれを一昔前の方式に戻す見直しの動きがあると聞いている。
是非早急に水門の開放をしていただきたいと思っている。
現在、この常陸川の水門の開放時間は年間で500~800時間くらいだ。
霞ヶ浦の水位が高い時だけ開放するため、海からの水は入って行かないのである。
霞ヶ浦は息を吐き続けるのみで吸えないから呼吸は苦しくなるばかりだ。
鰻も昔はたくさん採れたが、今では数得るほどしか取れない。
早急に考え直す時期に来ている。
夏のアオコの大量発生による悪臭は、自分で見て匂いをかいだ人にしかわからない。
私も今回調べて初めてこの方式の違いがわかったのである。
多くの人が理解できるような広報のあり方を是非お願いしたいものである。
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それもそれ程昔ではない。
香取の海、流れ海などと呼ばれていた頃はとてつもなく広い内海だった。
江戸時代になり、江戸の街を水害から守るため、暴れ川であった利根川を江戸湾から銚子の方に流れを変える大事業が行われた。
しかしその後も霞ヶ浦には海水が出入りする汽水湖となり、魚も海・川・湖などのすべての魚が豊富で、江戸の台所にも欠かせない魚の宝庫だった。

しかし、米作りがどうしても日本の食糧生産に欠かせないと、米栽培が優遇されると共に、霞ヶ浦沿岸ではそれまで何度も水害に苦しんでいた人びとの願いから2つの水門が作られた。
設けられたところは利根川と常陸川が合流する手前で、銚子から15km程手前である。
霞ヶ浦から海に流れる川が常陸川だ。
水門は利根川の入口と常陸川の入口にそれぞれ設けられ、同じように動いているように見えるがまったく動きは別々であるようだ。

利根川河口堰。
千葉県東庄町側から茨城県神栖市側を見たところ。
昭和46年1月に総工費125億円をかけ完成。
HPによると目的は2つ・・・塩害防止と東京の飲料水の確保(江戸川に送水)
こちらの利根川の水門は完全に利根川沿岸の水田などの塩害を防止するのが目的だが、これに大東京の水源確保という目的が付加された。

利根川にかかる水門の橋は「利根川大橋」という。
すぐ先に霞ヶ浦と繋がる常陸利根川が隣接しており、常陸川水門は利根川に設けられた水門より少し短いが、この目的は霞ヶ浦の治水(利根川の水位が高くて霞ヶ浦に水が逆流するのを防ぐ)が最大の目的で昭和38年(1963年)5月に18億円で完成した。

(常陸川水門)
確かにそれまで霞ヶ浦沿岸では多くの水害が発生しており、水門設置と護岸の整備で水害は大幅に減ったので、その効果があったということになる。
しかし、この水門が完成してから10年間は水害の恐れがある時のみ閉じて通常は水門を開けていたのであるが、1974年に水位が霞ヶ浦側の水位が高い時のみ開けるという方式に変えたのである。
これにより海水や利根川からの水が常陸川に入ることがなくなり、完全閉鎖と同じ状態になってしまった。
このため、霞ヶ浦は徐々に首根っこを押さえられて死の湖に変わって行ったのである。
塩害が問題だと水門を閉じ、また、鹿島臨海工業地帯の水源確保などの名目も加えられて行ったが、こちらは目的のような使われ方をしていない。
塩害の影響がどの程度及ぶかの検証も不十分で、何時までもこのままでは生態系は完全に破壊されてしまう。
現在国会でもこれを一昔前の方式に戻す見直しの動きがあると聞いている。
是非早急に水門の開放をしていただきたいと思っている。
現在、この常陸川の水門の開放時間は年間で500~800時間くらいだ。
霞ヶ浦の水位が高い時だけ開放するため、海からの水は入って行かないのである。
霞ヶ浦は息を吐き続けるのみで吸えないから呼吸は苦しくなるばかりだ。
鰻も昔はたくさん採れたが、今では数得るほどしか取れない。
早急に考え直す時期に来ている。
夏のアオコの大量発生による悪臭は、自分で見て匂いをかいだ人にしかわからない。
私も今回調べて初めてこの方式の違いがわかったのである。
多くの人が理解できるような広報のあり方を是非お願いしたいものである。


霞ヶ浦自体が死に掛けているといっても過言ではないのですね。 このお話 こちらのBlogでも掲載させてください。 遅くなってしまいましたが、今年の初かきこみです。またいろんな話楽しみに。
> 霞ヶ浦自体が死に掛けているといっても過言ではないのですね。 このお話 こちらのBlogでも掲載させてください。
現在アサザプロジェクトという団体での活動があり、土浦市議会でも一部開門の議決がされたとも聞いています。
しかし、これが現在別な問題でSTOPしているようです。
原発事故の放射性物質が湖底に沈澱していて湖底の放射能濃度が高くなっています。
開門すると銚子港の方に流れだすと言う人がいます。
このような意見があることを承知のうえでも開けるべき(一定の時間だけでも)だと思っています。
もちろんそちらのblogにて紹介することは構いませんが、このような意見もあることは申し伝えさせていただきます。
また長興寺にでも来られることがございましたらご連絡ください。
タクシーはもったいないので時間がとれれば駅からご案内します。
今、鹿嶋の海岸は砂浜がすごく少なくなっていて、昔は水門が開いていたので砂が運ばれてきていたけど、今は海に流されていくばかりで、いくらテトラ置いたところでと、年寄のかたがはなしていました。
実験的にでも水門開けてほしいです。
> みんなに知ってほしいと思います。水門の話、すごくわかりやすかったです。
はい。とてもうれしいです。
何度もこの水門の上の道を通る機会があり、いろいろ調べて書かせていただきました。
このように書いていただくとまたやる気が出ます。
> 今、鹿嶋の海岸は砂浜がすごく少なくなっていて、
海岸線は段々と砂が削られていますね。
鹿島灘も九十九里も砂が少なくなってしまいました。
防砂堤防やテトラなどで少し持ちこたえているのでしょう。
この水門も昔並みに開けてほしいものです。
今は問題はありますが、那珂川から水路でこちらに水を引く大型の計画や工事もやっているようです。