旧鹿島鉄道浜駅跡
昨年末に廃線となった鹿島鉄道の八木蒔駅の現在の姿をお伝えしたので、今回はもう一つ先の「浜駅」がどうなっているかを見てきました。
この鉄道の当初の目的は鹿島神宮参拝客を見込んだものだったようで、当初は「鹿島参宮鉄道」と言っていました。
そして、第1段階としてこの浜駅から船で鹿島神宮まで行く計画もされたといいます。
そのためまず常陸小川駅まで開通した鉄道を2年後(大正15年)にこの浜駅まで延ばし、桟橋も一部造られたそうです。
しかし計画は変わり鉾田方面に向きを変え、この先の玉造までは更に2年かかった。

浜駅があったのは現在の浜の街よりも大分手前でバス停「浜」のところを霞ヶ浦側に少し入ったところであった。
「浜駅・・・記念碑」と良く読めないが駅が開通した時(大正15年8月)のものではないかと思う記念碑が残されていた。

駅前のロータリーの面影がわかる。
線路は上の写真のトラックが停まっているあたりの右手に駅があり、左側に線路は真直ぐ伸びていたようだ。
左手沖には新しく太陽光パネルが設置されていた。

これはそのソーラーパネル。

駅があった場所は再開発が進んでいた。

この場所は筑波山もきれいに見える見晴らしの良い場所だ。

しばらく前までは草が生い茂って荒れた様子だったと言うが、今は整備されて盛んに工事がされていたので何かが出来るのだろうか。

このように駅のプラットホームがまだ残されていたので駅であったことを確認した。
どうも鹿島鉄道の各駅はその当時の街の中心地を通す考えはなかったようだ。
ほとんどの駅が町から少し離れた場所に建てられたように思う。
そして駅が出来たことで周辺が大いに発展した形跡もあまり見られない。
駅が無くなると元の草むらに戻ってしまうような感じなところが多い。
しかし、鉄道は人や物を運ぶ手段を提供してくれるものだけではない。
そこには人の輪もできるし、文化も生まれる。
それが無くなるといくらバスが走っていてもお互いをつなぐパイプが断ち切られてしまった寂しさがこみ上げてくる。
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この鉄道の当初の目的は鹿島神宮参拝客を見込んだものだったようで、当初は「鹿島参宮鉄道」と言っていました。
そして、第1段階としてこの浜駅から船で鹿島神宮まで行く計画もされたといいます。
そのためまず常陸小川駅まで開通した鉄道を2年後(大正15年)にこの浜駅まで延ばし、桟橋も一部造られたそうです。
しかし計画は変わり鉾田方面に向きを変え、この先の玉造までは更に2年かかった。

浜駅があったのは現在の浜の街よりも大分手前でバス停「浜」のところを霞ヶ浦側に少し入ったところであった。
「浜駅・・・記念碑」と良く読めないが駅が開通した時(大正15年8月)のものではないかと思う記念碑が残されていた。

駅前のロータリーの面影がわかる。
線路は上の写真のトラックが停まっているあたりの右手に駅があり、左側に線路は真直ぐ伸びていたようだ。
左手沖には新しく太陽光パネルが設置されていた。

これはそのソーラーパネル。

駅があった場所は再開発が進んでいた。

この場所は筑波山もきれいに見える見晴らしの良い場所だ。

しばらく前までは草が生い茂って荒れた様子だったと言うが、今は整備されて盛んに工事がされていたので何かが出来るのだろうか。

このように駅のプラットホームがまだ残されていたので駅であったことを確認した。
どうも鹿島鉄道の各駅はその当時の街の中心地を通す考えはなかったようだ。
ほとんどの駅が町から少し離れた場所に建てられたように思う。
そして駅が出来たことで周辺が大いに発展した形跡もあまり見られない。
駅が無くなると元の草むらに戻ってしまうような感じなところが多い。
しかし、鉄道は人や物を運ぶ手段を提供してくれるものだけではない。
そこには人の輪もできるし、文化も生まれる。
それが無くなるといくらバスが走っていてもお互いをつなぐパイプが断ち切られてしまった寂しさがこみ上げてくる。


鹿島鉄道が敷設された歴史を辿ると、その前の、明治20年頃からの常磐線敷設の影響が大きかったようです。
常磐線敷設は、もちろん一大交通事業で、土浦→石岡→水戸 と、主要都市を結んでいく計画だったことは明らかですが、当時、石岡から北は、羽鳥→友部ルートではなく、小川→茨城町ルートが考えられていたことはご存知でしょか?
その際、小川で、大きな反対運動が起こったらしいのです。
小川は、大きな町ではないですが、江戸時代には水戸藩に重用された水運(商取引)で大変栄えていた土地柄です。明治に入る頃には、外洋航路の開発や陸路の発展も始まっており、もうかなり衰退傾向ではあったようですが、それでもまだ、商取引の華やぎが残ったこの町には、水運に携わる生活者が多く、彼らにとって鉄道が来ることは死活問題だったのでしょう。
この話を聞いた当初は、当時の水運関係者たちにはまだ自信(というか奢り?)があり、「鉄道などなくても自分たちは水運でやっていけるじゃないか!」というような気運だったのかと思っていたのですが、よくよく聞き直すと、すでに大変な焦りようで、「鉄道なんか来たら自分たちは終わりじゃないか!」という方が正解みたいです。
そこで、当時は機関車ですから、「鉄道なんか来たら、騒音・轟音に加え、沿線は火の粉が舞うから火事まで多発して大変だぞ!」というようなことを派手に訴えて農家さんなども巻き込み、地域としての大反対キャンペーンを巻き起こしたようなのです。
その成果もあり、結果的に、常磐線のルートは、西側を廻ることとなりました。
しかし、その後、時代が更に進んでいくと、やはり鉄道が通らなかったことが、町の衰退に拍車を掛け、致命的だったことを、当人たちも自覚して行ったようです。
そこで、小川に縁のある豪商を中心に、石岡から、鹿島神宮への参詣を掲げての、小川方面への鉄道敷設の動きが生まれていったということのようです。
話が長くなりました。
そんなわけで、当時の鉄道は、主に火事を恐れ、よほどの大都市でない限り、町の中心部は通さないルートをとっているみたいですよ。実際に、機関車の火の粉が原因となった火事も、それなりに頻発していたそうです。
常陸小川駅も、あれだけ望んだ鉄道が来るとなっても、結局、中心部の住人たちの猛反対を受け、町の家並みが途絶えた町外れ(正確には玉里村に入った位置)になったそうです。
常磐線も然りで、神立や高浜も、羽鳥や友部も、当時町外れだったからこそ選ばれた場所だったということなのでしょうね。
ご丁寧に連絡いただきました事、感謝申し上げます。
> 鹿島鉄道が敷設された歴史を辿ると、その前の、明治20年頃からの常磐線敷設の影響が大きかったようです。
そうなんですね。鹿島鉄道が出来る時に小川が反対して「常陸小川駅」が玉里村側に作られたという話は聞いていました。
また小川の街を散策してこの地が水戸とのつながりが強く、水戸~江戸の水運でも重要な場所にある事は承知していました。
> 常磐線敷設は、もちろん一大交通事業で、土浦→石岡→水戸 と、主要都市を結んでいく計画だったことは明らかですが、当時、石岡から北は、羽鳥→友部ルートではなく、小川→茨城町ルートが考えられていたことはご存知でしょか?
これは知りませんでしたが、教えていただくと成るほどそうだったのかとわかります。
元々は水戸線が先にでき、北から石岡まで造ったのですし、高浜が難工事で大変でトンネルを掘る予定が切り通しとなったようです。
小川~長岡経由の方が昔の水戸街道に近いですね。
> そこで、当時は機関車ですから、「鉄道なんか来たら、騒音・轟音に加え、沿線は火の粉が舞うから火事まで多発して大変だぞ!」というようなことを派手に訴えて農家さんなども巻き込み、地域としての大反対キャンペーンを巻き起こしたようなのです。
とても残念でしたね。もしこちらを通っていたらその後の発展は全然違ったものになっていたでしょうね。
> そこで、小川に縁のある豪商を中心に、石岡から、鹿島神宮への参詣を掲げての、小川方面への鉄道敷設の動きが生まれていったということのようです。
最初は石岡ではなく高浜から出る計画だったとも聞いています。
金持ちが石岡に多かったようですね。(浜氏、青柳氏・・・)
街外れに出来たのもわかりますね。石岡も駅の辺りは昔は街外れでした。川が流れていた低地だったようです。
きっと土浦も街外れでしょうね。亀城公園とは少し離れていますから。
貴重な情報ありがとうございました。そのような眼でまた眺めてみたいと思います。
私は、ぜんぜん歴史に明るくもなくて、知ったような物言いをするのは憚られたのですが、この話(街外れの理由)を聞いたとき、すごく納得がいって、とても面白いと思ったので、思い切ってお話してみることにしました。
初めてこの話を聞いたのは、鹿島鉄道廃線が話題の頃、ウチの“じいちゃん”からでした。でも、昨夏、『小川町史』に同様の記載があるのを見つけ、本当のことだったんだ!と、あらためて驚きました。
『小川町史・下巻』の720頁後半から721頁にかけて(特に720頁の終わり~721頁の初め)です。機会があったら、ご覧になってみてくださいね。
>とても残念でしたね。もしこちらを通っていたらその後の発展は全然違ったものになっていたでしょうね。
そのような声も小さくなかったと思います。鹿島鉄道小川駅の場所が決定した当時も、町の有力者や一般の町民たちから、疑問や不満の声が随分と上がったそうです。(『小川町史・下巻』724頁後半から725頁にかけて)
でも、私は、不謹慎なのかもしれないですが、それで良かった面もあるのでは?などと、ひそかに思っています。
発展しすぎなかったからこそ残っているものも、たくさんあります。
実は、去年、子供が、夏休みの課題として、地元の歴史調べをやりたい!と言い出したことがきっかけで、このあたりの歴史のお話を齧り始めました。これが、ちょっと勉強し始めてみると興味深いことばかりで、親の方もハマりつつあります(笑)
その課題をフォローしている過程で、こちらのブログを見つけ、課題製作あたっても、子供とともに大いに参考にさせていただきました。とても勉強になりました。本当にどうもありがとうございました。
古い記事にも、コメント入れたくなるような話題が、たくさんありました。もし、タイムラグコメントでもよろしかったら、またたまにでも、思いのままにコメントさせていただけたら、とても嬉しいです。
教えていただきたいこと、このような方にだったらお伝えしたいな…と思うようなこと、たくさんあります。
これからも、歴史好きの子供と一緒に、折々楽しませていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
小川に住んでおられる方でしょうか。
あまり詳しく知らないのですが、やはり大昔に園部氏がいた頃から大きな町だったのでしょうね。
でも江戸時代は水運は確かに発達していて涸沼から小川にも随分物資が運ばれたようですね。
あの川の所に船付き場があったのでしょうね。
医学校などの先端技術がここにあったなどと調べてみるまで知りませんでした。
> この話(街外れの理由)を聞いたとき、すごく納得がいって、とても面白いと思ったので、思い切ってお話してみることにしました。
それは光栄です。鹿島鉄道も鉾田でつながっていればもう少し変ったのではないかなどと思いますね。
残念です。でも鉄道が無くなって文化などの横のつながりが断ち切られてしまうのはとても残念です。
> でも、昨夏、『小川町史』に同様の記載があるのを見つけ、本当のことだったんだ!と、あらためて驚きました。
今度図書館で探してみてみますね。
石岡市史にも載って入るのですが小川についてはほとんど書かれていません。
> でも、私は、不謹慎なのかもしれないですが、それで良かった面もあるのでは?などと、ひそかに思っています。
> 発展しすぎなかったからこそ残っているものも、たくさんあります。
小川の街並みもさびしくは成りましたが昔懐かしくなる街並みですね。
多くの方が哀愁を感じるところかもしれません。こう言うところも残してほしいと思います。
空港が出来て道路の拡張も進むとそれが壊されてしまう心配もありますね。
> 実は、去年、子供が、夏休みの課題として、地元の歴史調べをやりたい!と言い出したことがきっかけで、このあたりの歴史のお話を齧り始めました。これが、ちょっと勉強し始めてみると興味深いことばかりで、親の方もハマりつつあります(笑)
是非ハマって下さい。そしていろいろ情報をお願いしますね。
> 古い記事にも、コメント入れたくなるような話題が、たくさんありました。もし、タイムラグコメントでもよろしかったら、またたまにでも、思いのままにコメントさせていただけたら、とても嬉しいです。
全く問題ありません。古い記事も思い出してうれしいものですし、また出かけてみるきっかけになります。
> これからも、歴史好きの子供と一緒に、折々楽しませていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
こちらこそ楽しみが増えました。ありがとうございます。
小川から旧橘郷あたりはまだまだ未知なところがたくさんあります。