東大社
昨日利根川岸辺にある桜井の鳥居を紹介しましたが、あまりうまく紹介出来ていなくて反省です。
やはり調べて自分の頭で理解するのはかなり大変です。
時間がなくとりあえず書いた記事をUPして、読んだらおかしなところがありすぐに修正し、気になっていたところを調べ直していたら私の解釈が間違っていたことがありまた修正しました。
家内からも「少し手抜きになったね」などと言われるのでしばらく休みながら書こうかとも思ったのですが、止められないんです。
書いている方が苦労しても読んでもらえなければ意味もないのですが、長い目で見れば記録に残しておくと言う別次元の問題もあるのでその時に読まれなくても良いとも思っています。
昨日の桜井の鳥居を見てから数週間後にこの祭りの中心となっている東庄町(とうのしょうまち)の東大社(とうたいしゃ)に行ってみました。

成田線の下総橘(しもふさたちばな)駅より西に約2kmほど入って行った所にあります。
駅前には町の案内看板があります。
左上に天保水滸伝と諏訪大神、 そして右上に雲井岬つつじ公園と東大社が載っています。
諏訪大神については1年以上前に紹介しています。(こちら)

駅から結構近いと思ったのですがどんどん奥に入って行く感じです。
この東大社は鬱蒼とした森に囲まれ、入口は駅とは反対の西南の方向にあります。

とても歴史も古く簡単に紹介することもできないものがありますが、鹿島神宮との関係も深く鹿島神宮から鹿を奈良に運ぶ時もこの辺りを通っていたようです。
この神社拝殿は文政十年(1927)造営し、昭和31年に屋根を銅板葺に改修したもの。

この地は、鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼(たねより)が荘園(東庄)に住んで、この東大社神官より東氏(とうし)という名前を譲り受けて戦国時代まで支配してきた。

本殿は文政9年(1826)の造営。屋根は拝殿と共に昭和31年に銅版に葺き変えた。

銚子の式年神幸祭に使われている神輿。
水に浸かったりするのでそのたびに修理しているという。

この式年神幸祭は講4年(1102)にかつての東荘33郷がまとまって始められたと伝えられている。


東大社略記(クリックで拡大します)
なかなか一筋縄ではいきません。読んでみたい方は写真をクリックして拡大して読んでください。
ヤマトタケルの父「景行天皇」が息子が平定した地を後に巡行し、この神社の裏(白幡)に船でやってきて、七日間逗留した。
その時に東国・東海の鎮護としてこの神社を建てたのが始まりだとか・・・。
いまから1800年以上前?だという。(これは少しおかしいかな?)
ただ歴代の天皇や源頼朝、徳川家康などからも寄進を受けている大社である。
また明治6年に郷社、大正8年に県社となっている。
なかなか奥の深い神社である。
この地では江戸時代にはヤクザの親分がおり、天保15年(1844)、笹川繁蔵と飯岡助五郎の争いに平手造酒(ひらてみき)などが加わって、大利根河原の血闘が起こった。
この天保水滸伝も昔は浪曲で良くやっていたが、今では聞く事もないのでほとんどの方は知らないであろう。
江戸時代の水運の時代まではこの町も結構賑わっていたのであろう。
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やはり調べて自分の頭で理解するのはかなり大変です。
時間がなくとりあえず書いた記事をUPして、読んだらおかしなところがありすぐに修正し、気になっていたところを調べ直していたら私の解釈が間違っていたことがありまた修正しました。
家内からも「少し手抜きになったね」などと言われるのでしばらく休みながら書こうかとも思ったのですが、止められないんです。
書いている方が苦労しても読んでもらえなければ意味もないのですが、長い目で見れば記録に残しておくと言う別次元の問題もあるのでその時に読まれなくても良いとも思っています。
昨日の桜井の鳥居を見てから数週間後にこの祭りの中心となっている東庄町(とうのしょうまち)の東大社(とうたいしゃ)に行ってみました。

成田線の下総橘(しもふさたちばな)駅より西に約2kmほど入って行った所にあります。
駅前には町の案内看板があります。
左上に天保水滸伝と諏訪大神、 そして右上に雲井岬つつじ公園と東大社が載っています。
諏訪大神については1年以上前に紹介しています。(こちら)

駅から結構近いと思ったのですがどんどん奥に入って行く感じです。
この東大社は鬱蒼とした森に囲まれ、入口は駅とは反対の西南の方向にあります。

とても歴史も古く簡単に紹介することもできないものがありますが、鹿島神宮との関係も深く鹿島神宮から鹿を奈良に運ぶ時もこの辺りを通っていたようです。
この神社拝殿は文政十年(1927)造営し、昭和31年に屋根を銅板葺に改修したもの。

この地は、鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼(たねより)が荘園(東庄)に住んで、この東大社神官より東氏(とうし)という名前を譲り受けて戦国時代まで支配してきた。

本殿は文政9年(1826)の造営。屋根は拝殿と共に昭和31年に銅版に葺き変えた。

銚子の式年神幸祭に使われている神輿。
水に浸かったりするのでそのたびに修理しているという。

この式年神幸祭は講4年(1102)にかつての東荘33郷がまとまって始められたと伝えられている。


東大社略記(クリックで拡大します)
なかなか一筋縄ではいきません。読んでみたい方は写真をクリックして拡大して読んでください。
ヤマトタケルの父「景行天皇」が息子が平定した地を後に巡行し、この神社の裏(白幡)に船でやってきて、七日間逗留した。
その時に東国・東海の鎮護としてこの神社を建てたのが始まりだとか・・・。
いまから1800年以上前?だという。(これは少しおかしいかな?)
ただ歴代の天皇や源頼朝、徳川家康などからも寄進を受けている大社である。
また明治6年に郷社、大正8年に県社となっている。
なかなか奥の深い神社である。
この地では江戸時代にはヤクザの親分がおり、天保15年(1844)、笹川繁蔵と飯岡助五郎の争いに平手造酒(ひらてみき)などが加わって、大利根河原の血闘が起こった。
この天保水滸伝も昔は浪曲で良くやっていたが、今では聞く事もないのでほとんどの方は知らないであろう。
江戸時代の水運の時代まではこの町も結構賑わっていたのであろう。


>書いている方が苦労しても読んでもらえなければ意味もないのですが、長い目で見れば記録に残しておくと言う別次元の問題もあるのでその時に読まれなくても良いとも思っています。
Romanさんの記事は難しいので「ふ~む」とか「そうだっだの」「そうなんだ」と私には初めて知ることが多いのでコメントはなかなかできませんが 沢山の方が読んでいらっしゃいますよ。
FC2カウンターが何よりも如実にそれを表しています。
お疲れのたまらない範囲で是非記録を残し続けて頂きたいと思います。
>平手造酒(ひらてみき)
夫は左右の家が離れている山奥の村で育ったので 野中の一軒家のようにお風呂で大声で歌う癖があり(@_@;)
結婚当初は驚きました(>_<)
今はご近所への配慮が常識であることを訴え続けてだいぶ改善されました((+_+))フウ~ッ やれやれです。
その大声で歌っていたのが 平手造酒の出てくる歌詞でした。「世が世であれば 殿の招きの月見酒~~♪」??
初めて聞いた歌でした。可笑しく懐かしく思い出しました(#^.^#)
コメントありがとうございます
> Romanさんの記事は難しいので「ふ~む」とか「そうだっだの」「そうなんだ」と私には初めて知ることが多いのでコメントはなかなかできませんが 沢山の方が読んでいらっしゃいますよ。
何とかここまで続けてこられて、カウンタ数も当初では考えられない数になっています。
でも、長ったらしい文ももう少し工夫が必要でしょうね。
まあ、自分のための記録として役立つことも結構多いのです。
> お疲れのたまらない範囲で是非記録を残し続けて頂きたいと思います。
ありがとうございます。記事はスランプもあれば乗っていてどんどん書ける時もあります。
でもこのスランプをどうやって克服するか?? そんな大げさでもないですね。(笑)
> その大声で歌っていたのが 平手造酒の出てくる歌詞でした。「世が世であれば 殿の招きの月見酒~~♪」??
> 初めて聞いた歌でした。可笑しく懐かしく思い出しました(#^.^#)
わあ、私も子供の頃に聞いたような?? バタやんの大利根月夜ですね。
それと三波春雄の歌もありましたね。歌より途中のセリフが・・・。
懐かしいというより大分忘れました。