銚子のかんのん様
先日銚子で食事(サバの漬け丼)を食べたすぐ近くに銚子で「かんのん様」と慕われる「飯沼観音」がありました。
正式な名前は「飯沼山円福寺」です。

銚子電鉄の「観音駅」から銚子港の方に少し進んだあたりです。
立派な山門が目に飛び込んできました。

説明看板に書かれていた内容をそのまま転記します。
「飯沼観音・圓福寺は、坂東三十三カ所観音霊場二十七番札所で、本尊は十一面観世音菩薩が奉安されています。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され、門前町として繁栄してきました。平成21年には、新たに五重塔が建立されました。
また、飯沼観音境内には、明治5年にオランダ人技師リンドにより設置された「飯沼水準原標石」があり、これは日本における河川工事の水準基準面になるもので、日本最初の水準原標です。」
この水準原標は見落としてしまいました。今度行った時にでも確認してきます。

この「かんのんさま」の看板はでかいですね。
有料トイレもあり、かなり大きなお寺です。

平成18年9月18日着工、平成21年5月5日竣工の五重塔です。立派ですね。
総高33.5mで風圧に堪えるために心柱だけは鉄骨だそうです。

本尊の十一面観音は漁夫が拾い上げたものという。その後、弘仁年間(810~824)に海上長者が財を投じて壮麗な伽藍を建立し、その後も海上氏一族の庇護を受けて発展したと伝えられる。
戦国時代の天正6年(1578)に観音堂がたてられ、江戸時代の安永2年(1773)に銅葺に改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔、太子堂などのさまざまな建物が建てられたが、先の戦争ですべてを焼失したという。
さて、ここまでは検索して知った内容を記載したのだが、この坂東三十三カ所札所の二十七番目というが、このひとつ前の二十六番札所は土浦の小町の里近くにある「清滝寺」だ。(前に書いた記事:こちら)
あの土浦の北側にある寺からここまで歩いたり、舟に乗ったりしてやってくるとするとどれくらいかかるのだろうか?
この観音様の巡礼は土浦からくると100km近くあるのでこの門前町で泊まることになったそうだ。
この門前町も昔は栄えていたのだろう。魚はここから利根川を上って江戸まで運ばれたのであり(前の記事参照:こちら)、そんな事を考えて街を見ているとこの風景などもどこか懐かしい気がする。
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正式な名前は「飯沼山円福寺」です。

銚子電鉄の「観音駅」から銚子港の方に少し進んだあたりです。
立派な山門が目に飛び込んできました。

説明看板に書かれていた内容をそのまま転記します。
「飯沼観音・圓福寺は、坂東三十三カ所観音霊場二十七番札所で、本尊は十一面観世音菩薩が奉安されています。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され、門前町として繁栄してきました。平成21年には、新たに五重塔が建立されました。
また、飯沼観音境内には、明治5年にオランダ人技師リンドにより設置された「飯沼水準原標石」があり、これは日本における河川工事の水準基準面になるもので、日本最初の水準原標です。」
この水準原標は見落としてしまいました。今度行った時にでも確認してきます。

この「かんのんさま」の看板はでかいですね。
有料トイレもあり、かなり大きなお寺です。

平成18年9月18日着工、平成21年5月5日竣工の五重塔です。立派ですね。
総高33.5mで風圧に堪えるために心柱だけは鉄骨だそうです。

本尊の十一面観音は漁夫が拾い上げたものという。その後、弘仁年間(810~824)に海上長者が財を投じて壮麗な伽藍を建立し、その後も海上氏一族の庇護を受けて発展したと伝えられる。
戦国時代の天正6年(1578)に観音堂がたてられ、江戸時代の安永2年(1773)に銅葺に改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔、太子堂などのさまざまな建物が建てられたが、先の戦争ですべてを焼失したという。
さて、ここまでは検索して知った内容を記載したのだが、この坂東三十三カ所札所の二十七番目というが、このひとつ前の二十六番札所は土浦の小町の里近くにある「清滝寺」だ。(前に書いた記事:こちら)
あの土浦の北側にある寺からここまで歩いたり、舟に乗ったりしてやってくるとするとどれくらいかかるのだろうか?
この観音様の巡礼は土浦からくると100km近くあるのでこの門前町で泊まることになったそうだ。
この門前町も昔は栄えていたのだろう。魚はここから利根川を上って江戸まで運ばれたのであり(前の記事参照:こちら)、そんな事を考えて街を見ているとこの風景などもどこか懐かしい気がする。


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