小見川大橋
銚子から戻る時に利根川と常陸川の間にある中州を通ることが多い。
先日出かけた時に戻る時間が少し早かったので、途中の小見川大橋の所で夕暮れとなった。
信号待ちで1枚写真を撮った。

(写真はクリックすると拡大します)
利根川に架かる小見川大橋。
この川は利根川で橋を渡ると向こう側は小見川(現香取市)だ。そして香取神宮に行くことができる。
そして、この中洲の所から右に曲がると常陸川(常陸利根川)で、そこに架かる橋を息栖(いきす)大橋という。
そう、その息栖大橋を渡ると茨城県となりすぐそばに「息栖神社」があります。
この橋の所が東国三社といわれる「息栖神社」と「香取神宮」を結ぶ橋になります。
昔はこの中州の陸地はなく大きな海が繋がっていたのでしょう。
たそがれゆく空を眺め、すこし寂しく輝く明かりを見ているとどこか懐かしさがこみ上げてきます。
例え、鹿島・香取・息栖が直角三角形に並んでいるのが人工的に配置されたとしても、この三角地帯が大和朝廷の東国進出の最重要地帯だったのでしょう。
やはり黒潮に乗って、海からこの地に大和民族がやって来たのは間違いないでしょう。
前に書いた東国三社の位置関係はこちらを参照下さい。

(Flood Maps で海面高さを+5mとして表示した地図に記入)
今回はこの東国三社のレイラインと銚子と常陸国府石岡の位置関係を載せます。
前に鹿島-香取-息栖のラインを弓の弦と矢に例えてこの弓を引いた時に矢が放たれて常陸国府を焼いたという事を言っていた人がいた。
私はこの説には同調しないがこのラインの延長に常陸国府を移してきたのだと思うようになった。
石岡では「茨城の県名の発祥の地」との説明看板も立っているが、茨城は小原(現笠間市)からこの地に移されたものだ。
息栖神社を今の位置に移したと同じように、計画的にこの地に移したのではないかと思う。
まあ単なる仮説だが・・・。
今日は銚子に出かけていて戻るのが遅くなってしまった。
この橋の場所もまた通ったがもう辺りは暗闇であった。
まあこんな位置関係を考えながらここを通る人はたぶん他にはいないだろうと思う。
また上の地図では加波山までしか延ばしていないが、これをさらに延長するときっと日光に行くと思う。
徳川家康の墓所を東照宮に定めた「天海僧正」はきっとこれも見抜いて位置を決めたのかもしれない。
こんな想像も結構面白いな。
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先日出かけた時に戻る時間が少し早かったので、途中の小見川大橋の所で夕暮れとなった。
信号待ちで1枚写真を撮った。

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利根川に架かる小見川大橋。
この川は利根川で橋を渡ると向こう側は小見川(現香取市)だ。そして香取神宮に行くことができる。
そして、この中洲の所から右に曲がると常陸川(常陸利根川)で、そこに架かる橋を息栖(いきす)大橋という。
そう、その息栖大橋を渡ると茨城県となりすぐそばに「息栖神社」があります。
この橋の所が東国三社といわれる「息栖神社」と「香取神宮」を結ぶ橋になります。
昔はこの中州の陸地はなく大きな海が繋がっていたのでしょう。
たそがれゆく空を眺め、すこし寂しく輝く明かりを見ているとどこか懐かしさがこみ上げてきます。
例え、鹿島・香取・息栖が直角三角形に並んでいるのが人工的に配置されたとしても、この三角地帯が大和朝廷の東国進出の最重要地帯だったのでしょう。
やはり黒潮に乗って、海からこの地に大和民族がやって来たのは間違いないでしょう。
前に書いた東国三社の位置関係はこちらを参照下さい。

(Flood Maps で海面高さを+5mとして表示した地図に記入)
今回はこの東国三社のレイラインと銚子と常陸国府石岡の位置関係を載せます。
前に鹿島-香取-息栖のラインを弓の弦と矢に例えてこの弓を引いた時に矢が放たれて常陸国府を焼いたという事を言っていた人がいた。
私はこの説には同調しないがこのラインの延長に常陸国府を移してきたのだと思うようになった。
石岡では「茨城の県名の発祥の地」との説明看板も立っているが、茨城は小原(現笠間市)からこの地に移されたものだ。
息栖神社を今の位置に移したと同じように、計画的にこの地に移したのではないかと思う。
まあ単なる仮説だが・・・。
今日は銚子に出かけていて戻るのが遅くなってしまった。
この橋の場所もまた通ったがもう辺りは暗闇であった。
まあこんな位置関係を考えながらここを通る人はたぶん他にはいないだろうと思う。
また上の地図では加波山までしか延ばしていないが、これをさらに延長するときっと日光に行くと思う。
徳川家康の墓所を東照宮に定めた「天海僧正」はきっとこれも見抜いて位置を決めたのかもしれない。
こんな想像も結構面白いな。


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