回国六部

回国六部という人達を御存知でしょうか?

私も2-3年前までよく知りませんでした。
時代劇などではよく出てきていたようなのですが、あまり理解せずにいたようです。

背中にお経を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らしながら木戸銭などを乞いながら諸国を廻って歩いたといいます。
そう、時代劇にはよく出てきていた気がします。
六部(ろくぶ)とは六十六部が正式な名前のようですが、略して六部と言います。
法華経を写して、それを全国66ヵ国へ各1部ずつ奉納して回った人(行者)のことです。

室町時代くらいから僧侶中心に行われてきたようですが、江戸時代には民間の人でも多くの六部が現れたようです。
この六部のことを知るきっかけとなったのは、石岡市染谷にある「大乗妙典日本廻国供養碑」です。
この長たらしい名前で何のことかわからずに行ってみたのです。

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小さなお堂の脇にたくさんの苔むした石板が置かれていました。

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その石板にはどうやら地図らしきものが彫られています。
地図は日本地図であり、大まかには今の地図と北海道を除けば意外に正確なものです。
伊能忠敬が日本地図を作製するよりも約50年ほど前に作られたものです。

伝承によれば、地元の須賀田庄右門が自ら日本廻国の成就を記念し、元禄七年(1694)に建立したとなっています。
経典を奉納した六十六の国を地図に彫ったものと思われます。
ここは染谷地区の高台側にありますが、「六部台」と呼ばれている場所だといいます。
石板も風雨に曝されて線も薄くなりかけています。
この当時の日本地図としても価値があるものと思いますが、個人所有とはいえ、個人にその保管が任されていても良いのか疑問ですね。
さて、このような六部は室町時代には僧侶が行っていたのですが、江戸時代にはこのように民間の篤志家でも行なう者が出てきたのだと思います。

 先日紹介した小町伝説の「北向観音堂」に祀られた「観音像」も行基菩薩が連れてきた稽主勲兄弟の作といわれていますが、どうもその昔、六部が背負ってきたものを病になり、厄介になった代わりに置いて行ったものとも伝えられています。
また、天狗の話にも出てきた「長楽寺」にも六部の回国記念の石板があるといいます。
日本各地に六部が途中で病に倒れたなどで、幾つもの逸話が残っているようです。
私たちも戦後の現代的な生活に慣れ親しんで、このような話がきっとどこかにまだ埋もれてしまっているに違いありません。

六部の話の最後に各地に「六部殺し」という物騒な話が伝わっています。

有名なものは

「ある晩、六部が家を訪ねてきて、一晩の宿を頼んだ。
主人は、快く泊めてやった。 
しかし、その六部が大金を持っていることに気がついて、その金(金塊?)を奪うために殺してしまう。
そうして、村一番の長者になるが、身内に不幸が降りそそぐ。
来る嫁は亡くなり、子供も次々に亡くなってしまう。
ようやく、子供も無事に育つ子もでてきたとき、ある晩、その子を背負って山道を歩いていたら、
背中の子供が「あれもちょうどこんな晩だったね~」としゃべった。
最後には一家は没落していったと」

この怪談話しの背景に当時一人で国中を渡り歩く六部の姿を映し出しているのかもしれません。
六部が金塊を持っていたり、泊めた六部が消えてしまったり、六部を泊めた家がお金持ちになったりしたのを、このような話として伝わっていったのかもしれません。

  

石岡市内 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/01/13 19:34
コメント
No title
こんにちは、
今日は天狗からここまで読みました、
ありがとうございます。
Re: No title
いつもありがとうございます。
正月からテーマを絞りながら書いていますが、まだまだ頑張らねば。
励みになります。

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