大龍禅寺(佐原)(1)
先日数回に分けて佐原の街並みを紹介しました。
この時に街並み見物の時間を短くしてこの寺にやってきました。
佐原の街は香取神宮の門前町のような位置にありますが、市内には佐原の大祭を行う市内を2分した「八坂神社」(こちら)と諏訪神社(こちら1、こちら2、こちら3)があります。
その他に見ておかねばならないと思った一つがこの「大龍禅寺」(与倉)と「観福寺」(山倉)です。
観福寺にはその前に訪れていますので後で紹介します。
まずは「大龍禅寺」(宝雲山 大龍寺)です。
あまり予備知識もなく訪れたのですが、なかなか見ごたえのあるお寺(古刹)でした。

佐原の街からは国道51号線を成田の方に3kmほど南下したところから東に脇道を少し入ったところにあります。
このお寺は国道側が高台になっているのでその山を少し下った麓に静かに佇んでいました。

東国花の寺100ヶ寺の一つで、ここの花は7月下旬頃の夏の花「のうぜんかずら」だそうです。
今の時期にも「梅」「椿」などがとてもきれいな寺でした。

訪れたのはもう2週間くらい前なのですが白梅・紅梅がきれいに咲いていました。

しだれ紅梅もきれいです。寺はきれいに掃き清められています。
でも訪れている人はおりませんでした。

椿の花も大木があちこちにあります。
寺の由緒は
「 寺伝によれば、大同年間(806~810)に眩円律師という僧が草庵を結んだのが始まりという。その後、約560年間は盛衰を繰り返したというが、詳細は不明である。南北朝時代・応安元年(1368)を迎えて、矢作城主6代国分胤詮(国分三河守入道寿観)が境内地を寄進、伽藍を建立し、栄西禅師の法孫で鎌倉寿福寺の大航慈船禅師を開山として迎え、禅寺となった」
と「東国花の寺百ヶ寺」のホームページ(こちら)に書かれています。

でも来てみなければ感じられない物がたくさんこの寺にはありました。
一つは境内に残されたたくさんの「板碑」です。
寺の山門をくぐったすぐ左側に屋根をかけてまとめられています。

これらの板碑はそれぞれに長い歴史がありそうですが、あまりよく分かりません。
戦国時代末期にこの寺を再興したという「(下総)国分氏」は千葉氏一族(千葉常胤の五男)で香取地方を治め、源頼朝にしたがって奥州合戦に参戦し武功をあげて奥州の領地を得て奥州国分氏(宮城県亘理郡など)ともなった。
しかし、その後この下総国分氏は秀吉・家康らに領地を没収され、常陸国鹿島氏の養子になり水戸徳川氏などに仕えたと言う。

この板碑の古いものはこの国分氏時代のもので、約500~650年ほど前である。



寺の脇には小さな板碑がたくさん並べられています。特に説明はないので詳細はわかりませんでした。
この地を領してこの寺の再興をした国分氏は、千葉常胤の五男胤通が下総の国分寺(市川)領域を支配していたために国分氏と言われるようになったのが始めだと言う。
矢作城がどの辺にあったのか、またここから国分氏が逃げてしまった後1590年に「矢作藩(やはぎはん)」が一時立藩(鳥居氏)され、1600年から9年間三浦氏が1万石で藩が復活している。こういう事柄もいろいろと考えさせられる。
この香取もこの下総国府(市川)から40~50km離れているが、水運では比較的近かったのかもしれない。
下総一宮の香取神宮と国府のあった市川との関係も考えさせられる寺である。
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この時に街並み見物の時間を短くしてこの寺にやってきました。
佐原の街は香取神宮の門前町のような位置にありますが、市内には佐原の大祭を行う市内を2分した「八坂神社」(こちら)と諏訪神社(こちら1、こちら2、こちら3)があります。
その他に見ておかねばならないと思った一つがこの「大龍禅寺」(与倉)と「観福寺」(山倉)です。
観福寺にはその前に訪れていますので後で紹介します。
まずは「大龍禅寺」(宝雲山 大龍寺)です。
あまり予備知識もなく訪れたのですが、なかなか見ごたえのあるお寺(古刹)でした。

佐原の街からは国道51号線を成田の方に3kmほど南下したところから東に脇道を少し入ったところにあります。
このお寺は国道側が高台になっているのでその山を少し下った麓に静かに佇んでいました。

東国花の寺100ヶ寺の一つで、ここの花は7月下旬頃の夏の花「のうぜんかずら」だそうです。
今の時期にも「梅」「椿」などがとてもきれいな寺でした。

訪れたのはもう2週間くらい前なのですが白梅・紅梅がきれいに咲いていました。

しだれ紅梅もきれいです。寺はきれいに掃き清められています。
でも訪れている人はおりませんでした。

椿の花も大木があちこちにあります。
寺の由緒は
「 寺伝によれば、大同年間(806~810)に眩円律師という僧が草庵を結んだのが始まりという。その後、約560年間は盛衰を繰り返したというが、詳細は不明である。南北朝時代・応安元年(1368)を迎えて、矢作城主6代国分胤詮(国分三河守入道寿観)が境内地を寄進、伽藍を建立し、栄西禅師の法孫で鎌倉寿福寺の大航慈船禅師を開山として迎え、禅寺となった」
と「東国花の寺百ヶ寺」のホームページ(こちら)に書かれています。

でも来てみなければ感じられない物がたくさんこの寺にはありました。
一つは境内に残されたたくさんの「板碑」です。
寺の山門をくぐったすぐ左側に屋根をかけてまとめられています。

これらの板碑はそれぞれに長い歴史がありそうですが、あまりよく分かりません。
戦国時代末期にこの寺を再興したという「(下総)国分氏」は千葉氏一族(千葉常胤の五男)で香取地方を治め、源頼朝にしたがって奥州合戦に参戦し武功をあげて奥州の領地を得て奥州国分氏(宮城県亘理郡など)ともなった。
しかし、その後この下総国分氏は秀吉・家康らに領地を没収され、常陸国鹿島氏の養子になり水戸徳川氏などに仕えたと言う。

この板碑の古いものはこの国分氏時代のもので、約500~650年ほど前である。



寺の脇には小さな板碑がたくさん並べられています。特に説明はないので詳細はわかりませんでした。
この地を領してこの寺の再興をした国分氏は、千葉常胤の五男胤通が下総の国分寺(市川)領域を支配していたために国分氏と言われるようになったのが始めだと言う。
矢作城がどの辺にあったのか、またここから国分氏が逃げてしまった後1590年に「矢作藩(やはぎはん)」が一時立藩(鳥居氏)され、1600年から9年間三浦氏が1万石で藩が復活している。こういう事柄もいろいろと考えさせられる。
この香取もこの下総国府(市川)から40~50km離れているが、水運では比較的近かったのかもしれない。
下総一宮の香取神宮と国府のあった市川との関係も考えさせられる寺である。


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