切手神社(香取市)
昨日紹介した「返田神社」から佐原の街の方に少し行ったところに「切手神社」という少し変わった名前の神社がありました。
県道16号の通り沿いにある古そうな神社です。近くに郵便局があるけどまさか?
場所は「返田(かやだ)」地区の隣で「大根(おおね)」地区です。
昔はどうやら「大根神社」と呼ばれていたようです
これも「だいこんじんじゃ」なんて読まれたら二股大根でも供えられてしまいそうです。

この狛犬、なかなか姿がいいです。でもどこかで見たような気がします。
調べたら、昭和9年に建立されたようです。

「阿」型の狛犬です。どうですか? 飛びかかってきそうですね。

鳥居と拝殿。扁額には「切手大神」と書かれています。

拝殿と本殿。

大根村と彫られた石祠。江戸時代のものだろうか。
その他に手水舎の石は文久三年(1863年)、石灯籠は宝暦10年(1760年)と江戸中期から後期のものが散見される。
やはりこの神社の名前が気になりいろいろ調べていたが、気になる記事を見つけた。
「藤原としえ著『抹殺された古代出雲王朝』(三一書房)の153ページに由来が書かれています。
崇神軍がこの地で物部軍を制圧した時、出雲族に伝わる「息呼せ」という技法を伝授するのを拒否した物部(大根一族)の者たちの手を切ったからだそうです。」(こちらの記事)
これはとても興味深い内容です。
実は銚子側からこの香取神宮のあたりまでと神宮のおひざ元の佐原の街とはかなり土地柄のイメージが異なります。
佐原の街や東庄の街中には大きな「諏訪神社=諏訪大神」があります。
諏訪と言えば出雲族でしょう。
そうするとやはり昔に物部族と出雲族がこの辺りで激突した?
昔の地形で見るとこの辺りは少し高台になっていて佐原の街から入江のように海が入り込んでいるのがわかります。
(FloodMaps使用)
手を切ったので「切手」となったとするのはどの程度の根拠があるかはわかりませんが、伝承として似たようなことはあったのではないかと思います。
「潮来」については常陸国風土記に書かれていて土地に住む者たちが穴倉の棲みかに隠れてしまったので海辺で楽器などを鳴らして踊りをやっておびき出し、皆殺しにした・・・
これが「いたく殺した」から「板来」になり、徳川光圀が「潮宮」の名前をとって潮来にしたと。
もう一つ稲敷市の小野川が霞ヶ浦に注ぐ河口の土地が「古渡」(ふっと)というのは私は昔の縄文語(アイヌ語)説をとりますが、謂れとしてはやはり首をフット、フットと切り落としたとの伝承もあるようです。
この稲敷市から美浦村は昔の信太郡のあった場所ですが、ここに物部のフツヌシに関係した「楯縫神社(たてぬいじんじゃ)」があります。常陸国風土記に書かれている普都大神が楯を脱いだ地と言われるところです。
まあどこまでが真実かはわかりませんが、昔の地形などと照らし合わせて見ていくと大きな流れが見えてきそうです。
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県道16号の通り沿いにある古そうな神社です。近くに郵便局があるけどまさか?
場所は「返田(かやだ)」地区の隣で「大根(おおね)」地区です。
昔はどうやら「大根神社」と呼ばれていたようです
これも「だいこんじんじゃ」なんて読まれたら二股大根でも供えられてしまいそうです。

この狛犬、なかなか姿がいいです。でもどこかで見たような気がします。
調べたら、昭和9年に建立されたようです。

「阿」型の狛犬です。どうですか? 飛びかかってきそうですね。

鳥居と拝殿。扁額には「切手大神」と書かれています。

拝殿と本殿。

大根村と彫られた石祠。江戸時代のものだろうか。
その他に手水舎の石は文久三年(1863年)、石灯籠は宝暦10年(1760年)と江戸中期から後期のものが散見される。
やはりこの神社の名前が気になりいろいろ調べていたが、気になる記事を見つけた。
「藤原としえ著『抹殺された古代出雲王朝』(三一書房)の153ページに由来が書かれています。
崇神軍がこの地で物部軍を制圧した時、出雲族に伝わる「息呼せ」という技法を伝授するのを拒否した物部(大根一族)の者たちの手を切ったからだそうです。」(こちらの記事)
これはとても興味深い内容です。
実は銚子側からこの香取神宮のあたりまでと神宮のおひざ元の佐原の街とはかなり土地柄のイメージが異なります。
佐原の街や東庄の街中には大きな「諏訪神社=諏訪大神」があります。
諏訪と言えば出雲族でしょう。
そうするとやはり昔に物部族と出雲族がこの辺りで激突した?
昔の地形で見るとこの辺りは少し高台になっていて佐原の街から入江のように海が入り込んでいるのがわかります。
(FloodMaps使用)
手を切ったので「切手」となったとするのはどの程度の根拠があるかはわかりませんが、伝承として似たようなことはあったのではないかと思います。
「潮来」については常陸国風土記に書かれていて土地に住む者たちが穴倉の棲みかに隠れてしまったので海辺で楽器などを鳴らして踊りをやっておびき出し、皆殺しにした・・・
これが「いたく殺した」から「板来」になり、徳川光圀が「潮宮」の名前をとって潮来にしたと。
もう一つ稲敷市の小野川が霞ヶ浦に注ぐ河口の土地が「古渡」(ふっと)というのは私は昔の縄文語(アイヌ語)説をとりますが、謂れとしてはやはり首をフット、フットと切り落としたとの伝承もあるようです。
この稲敷市から美浦村は昔の信太郡のあった場所ですが、ここに物部のフツヌシに関係した「楯縫神社(たてぬいじんじゃ)」があります。常陸国風土記に書かれている普都大神が楯を脱いだ地と言われるところです。
まあどこまでが真実かはわかりませんが、昔の地形などと照らし合わせて見ていくと大きな流れが見えてきそうです。


もしかしたらご存知かもしれませんが、江戸時代切符手形という商品券のようなものがありました。それを略して切手というらしいです。蔵預かり切手などともいうらしいです米切手なら米に交換してくれるというようなものらしいでエス。それがどうして神社の名前になっているかはわかりませんし、この神社の名前がそういう意味かどうかも分かりません。
ご参考までに書いておきます。
> もしかしたらご存知かもしれませんが、江戸時代切符手形という商品券のようなものがありました。それを略して切手というらしいです。
この切手神社を調べていてそのような記事も読んでいます。
でもそれを神社の名前としたと言うのはあまり考えられないと思って調べていました。
そうしたら、手を切ったとの言い伝えで神社の名前にしたと出て来たのでこの方が自分にはスッキリきたと言うに過ぎません。
解釈はどちらかをとるかは人それぞれかもしれませんね。
でもコメントうれしいです。
あそれから、小原周辺の紹介とても参考になりました。ありがとうございました。