玉の井跡(玉里)
小美玉市は小川町・美野里町・玉里村が合併してそれぞれの頭の文字をとってできた市であり、最初のうちは笑っている人が多かったようだが、最近は何処かこんな名前の市も違和感がなくなってきた。
さて、その中の一番小さな玉里村の名前については、常陸国風土記の茨城郡の終わりの方に書かれている。
「郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」
(口訳・常陸国風土記より)
この清らかな井戸のあった場所と言われるところが玉里大宮神社の山の裏側にあるというので見に出かけた。
大宮神社の裏と書かれているので大宮神社に行ってそれらしきところを探してみたが、何処にもない。

この大宮神社は前にも訪れている。(記事はこちら)
なかなかどっしりとした立派な神社である。この裏山の先にありそうなのだが山の中をやみくもに進むこともできずあきらめて調べなおした。

この玉井跡は、神社の1本先の道を入り、道なりに少し行ったところにあるというのでこちらに回って見た。
この辺りはのどかな里山が広がっており、梅の花も満開であった。(先週末)

少し進んで神社の裏山が終わった辺りの低くなった谷のような場所に「玉井」の看板があった。

「玉乃井跡」と彫られた立派な石碑が建てられていた。
そして奥に木でできたテーブルとベンチが置かれている。
やはり井戸の跡ということで地面は少し湿っている。

昨年が常陸国風土記1300年ということでここも整備がされたようだ。
梅の木葉何時頃植えられたものだろう。
石碑の所は梅の老木があるのでこれはだいぶ前からあるのだろう。

こうして梅林のようにしているので、訪れる人も増えてくれたらいいなと思う。

すぐまた近くに「円妙寺」がある。こちらも前に記事を書いた(こちら)
この寺の常行堂はかなり立派なものである。あまり知られていないようだが近くにいからたら一度寄ってほしいと思う。

この寺の山門近くにも梅が咲き誇ったように咲いていました。
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さて、その中の一番小さな玉里村の名前については、常陸国風土記の茨城郡の終わりの方に書かれている。
「郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」
(口訳・常陸国風土記より)
この清らかな井戸のあった場所と言われるところが玉里大宮神社の山の裏側にあるというので見に出かけた。
大宮神社の裏と書かれているので大宮神社に行ってそれらしきところを探してみたが、何処にもない。

この大宮神社は前にも訪れている。(記事はこちら)
なかなかどっしりとした立派な神社である。この裏山の先にありそうなのだが山の中をやみくもに進むこともできずあきらめて調べなおした。

この玉井跡は、神社の1本先の道を入り、道なりに少し行ったところにあるというのでこちらに回って見た。
この辺りはのどかな里山が広がっており、梅の花も満開であった。(先週末)

少し進んで神社の裏山が終わった辺りの低くなった谷のような場所に「玉井」の看板があった。

「玉乃井跡」と彫られた立派な石碑が建てられていた。
そして奥に木でできたテーブルとベンチが置かれている。
やはり井戸の跡ということで地面は少し湿っている。

昨年が常陸国風土記1300年ということでここも整備がされたようだ。
梅の木葉何時頃植えられたものだろう。
石碑の所は梅の老木があるのでこれはだいぶ前からあるのだろう。

こうして梅林のようにしているので、訪れる人も増えてくれたらいいなと思う。

すぐまた近くに「円妙寺」がある。こちらも前に記事を書いた(こちら)
この寺の常行堂はかなり立派なものである。あまり知られていないようだが近くにいからたら一度寄ってほしいと思う。

この寺の山門近くにも梅が咲き誇ったように咲いていました。


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