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手子后神社と古墳(1)

 さて、手子后(てごさき)神社を5つ見てきましたが、やはり何を祭った神社なのかははっきりしません。
でもすべては「后」の字に現われているように誰かの「お后」を祀ったもの、又は後にそのように思われて理解されてきたものなのかもしれません。

香島(鹿島)郡の成立にからむと思われる童子女の松原にある手子后神社からその他の4か所の手子后神社を見て回り不思議な共通点が見えてきました。

それはすべてまわりに古墳群がある場所に建てられています。

関連するかどうかはわかりませんが少しづつ紹介します。

まずは石岡市中津川台地の手子后(てごめ)神社です。

tegosaki2.jpg
(FloodMapsで水面を+5mとした地図)

石岡は昔は常陸府中(常府)と呼ばれ常陸国が成立した頃から国府の地であり、国衙跡も石岡小学校の敷地で発掘されています。

そのため常陸国風土記が編纂された1300年前頃は国分寺、国分尼寺などと共に行政の中心が国府跡(石岡小学校)にあったようです。

しかし常陸国が出来る前に茨城国があり、この地に茨城国造がとりまとめていました。

常陸国が成立したのは大化の改新(645年)の直後と言われていてこの頃は常陸国に11郡が置かれ、この地は茨城郡となります。

この茨城郡の中心は石岡外城(とじょう)跡といわれる岡田神社の場所と茨城廃寺跡が集中する貝地、田島の舌状台地にあったものと思われます。

その台地を高浜方面に1.5km程行ったところに茨城県最大で東関東で2番目の大きさの前方後円墳「舟塚山古墳」があり、その近くに大小合わせて25個程の古墳群が点在しています。

この古墳の築造年代は5世紀後半と考えられていますので大化の改新よりも150年以上前になります。

また国分寺よりも古い寺といわれる茨城廃寺(茨木寺)の建造は7世紀後半ですから舟塚山古墳から200年近くも後になります。

この舟塚山古墳は茨城国造である「筑紫刀禰(つくしとね)」の墓ではないかといわれている。

この筑紫刀禰は天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫と言われ、天津彦根は出雲国風土記では出雲の屋代(現島根県安来市)にヤシロを建てたとされる神であるから出雲系の部族であろう。

日本全国に神社が建てられ広まったのはいつごろなのか?
坂上田村麻呂の東征でアテルイが都に連れて来られ処刑されたのは西暦802年で、この年から大同年間(806~810年)に創建された神社は数知れない程ある。

それまでどのような信仰のスタイルであったのかなどがあまりよく分からないが、やはり小さな社などを建てていたのかもしれない。

この手子后神社もその頃にこの古墳に眠る豪族の后の墳墓として古墳近くに置かれたものなのかもしれない。

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手子后神社 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/04/23 19:51
コメント
古い神社は、その前身に何かがあったのですね。神社という形式で、それ以前の何かが残っていると言うのは素晴らしい事です。八百の神を許す風土だからこその事象ですが、日本らしいといえます。ヤマト以前にその地方を治めていた人の妃でしょうか。
kincyanさん
この神社がどういうわけか神話に出てくる人物を祀ったものではないようで??
期になるのだけどやはり判りません。

まあ、確かに八百神ですからたくさん神様はいても不思議ではないですね。

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