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手子后神社と古墳(2)

 石岡市中津川の手子后(てごめ)神社は東日本で2番目に大きな舟塚山古墳の近くであった。

そのため、次に向かった水戸市元石川町の手子后(てごさき)神社の周辺を調べて見た。
すると近くに国の史跡に登録されている「吉田古墳」があった。またこちらは元吉田町である。

吉田古墳はそれほど大きくはないが武具を主体とした壁画がある学術的に貴重な古墳で6世紀後半のものと考えられている。
これは舟塚山古墳より100年ほど後の時代のものとなる。
周囲はもう市街地であるので、この辺りにもたくさんの古墳群があったのかもしれないが宅地化されてしまったものか・・・。

さて、このエリアには有名な吉田神社という古い神社がある。常陸国三宮である。

創建はわかっていないが神社のHPによれば5世紀後半に創建されてのではないかということのようだ。
これは舟塚山古墳の築造期とほぼ同じ頃になる。

この吉田地域には5世紀にすでに豪族がいたのであろう。

さて、何かここは石岡の旧国府と深いつながりがあるような・・・。
石岡で戦国末期まで長い間続いてきた平氏の統領である大掾氏は確か水戸の「吉田氏」である。また馬場氏ともいう。

これは関東平氏の統領である常陸大掾(だいじょう)氏の歴史を紐解かねばならない。

これは話が長くなりそうなので適当に割愛しましょう。

桓武天皇の曽孫である高望王が平氏の名前をもらって民間に下って上総介となって関東にやってきたのが889年。
その長男国香が常陸大掾の源護と手を組んで石田に居を構える。(この系列から平清盛などの伊勢の平氏も起こる)

甥の将門と戦った国香は敗れて死んでしまう。その後その長男貞盛が将門を打ち破り鎮守府将軍・陸奥守などにも任じられ常陸国の大掾職を世襲で行うことになる。

貞盛の養子維幹が大掾氏を世襲しつくば市北条の多気山に城を築いて多気大掾となる。(990年頃)

後三年の役の後、維幹の三代後の多気大掾である致幹(むねもと)の時代にその弟清幹が水戸に進出して吉田氏を名乗る。
この清幹の娘と新羅三郎義光の長男義業との間に生まれた子供昌義が佐竹氏の始まりである。

こう考えると源氏も平家もないのである。

この吉田氏が後に馬場(現水戸一校グランド)に進出し水戸城を築き常陸国の大掾を継いで行くのである。

考えて見ればこの吉田氏(馬場氏)が石岡に城を最初に築いた場所は今の岡田神社のある辺り(貝地、田島地区)であるが、これは鎌倉時代になってすぐのことでである。

tekosaki3.jpg
(FloodMaps で海面の高さを+5mとしています)

涸沼と那珂川の河口が一緒になり大きな汽水湖が現われます。
常陸風土記に書かれた「阿多可奈湖」です。

元石川町の手子后神社の周りも湿地帯のようになっており、神社の裏手に飲料となる湧き水があったのでこの場所にいた民族の居住地もあったのでしょう。

水戸市の元吉田町と元石川町という名前が気になりますね。
これは水戸市に「吉田町」と「石川町」が別にあるので、吉田氏、石川氏が昔いた場所をそれぞれ元吉田町と元石川町と名前をつけたのではないかと思います。

将門の討伐に「吉田氏」「石川氏」などという名前も出てくるようですので、先に書いた多気大掾の兄弟が進出するよりも前にすでにこの地には同じ名前の豪族が住んでいたように思います。

もう少しじっくり年代を整理してこれらの関係を見ていかなければ理解できそうにありません。

那珂(仲)国造の支配の土地であったはずで、1500年ほど前に建借間命(たけかしまのみこと)がこの地を制し那珂川を上って行ったのです。

この手子后神社はもしかしたら建借間命のお后または娘(神栖の手子后神社は鹿島神宮の大神の娘という説もあるので)を祀ったと言うことも考えられれそうな気がします。


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手子后神社 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/25 21:52
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