手子后神社と古墳(3)

 手子后神社と古墳の関係のを調べながら書いています。3か所目は水戸市田島町(内原駅の近く)の手子后(てごさき)神社です。

ここはまさに常陸国風土記にでてくるクレフシ山(朝房山がその山とみなされている)の麓にあります。
そして水戸市の古墳公園がありたくさんの古墳が集中しています。

こちらの古墳公園は前に書いたとおり(こちら)16基の古墳が集中しています。

古墳の築造年ははっきりせず、4世紀頃から6世紀末頃まで200年間くらいにまたがっているようです。
また正式な呼び名は牛伏古墳群と呼ばれているそうです。

kurefusi.jpg

もう一つ近くに舟塚古墳(こちら)もあります。
こちらは6世紀のものと考えられています。

さて、ではこの辺りはどんな人たちが住んでいたのでしょうか?

大足(おおだら)、木葉下(あぼっけ)、牛伏(うしぶし)などの興味深い地名は何を指しているのでしょうか?

前も書きましたが、朝鮮南部の人たちが移り住んでいた場所ではないかとの思いを強くする場所です。

製鉄技術を持ち、焼き物の技術をもった人たちがいたのではないかと・・・・。

世界大百科事典の【三輪山伝説】よりの抜粋記事を他のサイト(こちら)から転載します。

…この子が三輪氏の祖の意富多多泥古(おおたたねこ)(大田田根子)であり,三輪山の神大物主神を斎(いつ)き祭ったという。

この説話は《日本書紀》では箸墓(はしはか)伝説(倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命)として記され,男の正体は三輪山の蛇とされるが,夜な夜な通う男の正体や生まれた子の父が問題となる伝承は,《常陸国風土記》の晡時臥(くれふし)山伝説や《山城国風土記》逸文に記す賀茂伝説など広く分布するものである。

多くの氏族は祖神との関係を系譜的に物語る伝承を多少なりとももっていたはずで,それには父なる神が処女のもとに寄り来て聖なる子が誕生するという型が一般的であった。…


また常陸国風土記の伝説は、那珂郡のところに

 ○くれふし山の蛇

 茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
 この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
 蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。
ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。
そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。
こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
 ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。
わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。
ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。
見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
 別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」(口訳・常陸国風土記より)

しかし、この物語は私のいる石岡の片岡地区にもそっくりな話として伝わっています。
このくれふし山は龍神山(昔は村上山)です。

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手子后神社 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/27 18:27
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