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手子后神社と古墳(4)

 石岡から北へ真直ぐ進むと前回紹介したくれふし古墳公園の近くを通り木葉下(あぼっけ)を通って城里町の石塚に至ります。(石塚街道)

城里町石塚は高台で、ここから道路は那珂川の河川敷に降りるように圷(あくつ)へ一気に下ります。

圷地区の手子后(てごさき)神社は那珂川に寄った場所で昔は那珂川がもっと広かったのかもしれません。

特に気になるのは「粟」とか「阿波山」という地名で、ここに古墳時代に多くの人々が住んでいたようです。

阿波山上神社はご神木に少彦名が舞い降りたところと伝えられ、常陸風土記では那珂川は「粟川」と書かれていることを考えると、この粟地方に大洗磯前神社と酒列磯前神社に少彦名が祀られ、ここから那珂川をさかのぼってやってきた人びとがまずこの粟地方に拠点を構えて生活していたものと考えられます。

水戸のクレフシ山(朝房山)からもこの地に真直ぐと来ることが出来ますので両方から人が集まっていたのかもしれません。

近くの古墳ですが、地図に書いたように大きく3つの古墳群(毘沙門塚古墳郡、滝ノ上古墳群、高久崎古墳群)がありますが、これらは今ではほとんど平らになってしまいその面影がわからなくなっています。

katsura.jpg

石岡にやって来た時からこの道を何度も北に向かって車で通っています。

そしてこの道が坂上田村麻呂や八幡太郎義家などが東北に向かう時に通ったと言う伝承も残されており(もっともこれはその他多くの地に残っていますが・・・)蝦夷の人びとが東北に追いやられる時にもこの辺を通って北へ向かったのではないかとも考えることも出来そうです。

この道を北へ行くと桂大橋で那珂川を渡り、この辺りにも那珂という地名があり、那珂川の名前の発祥なのかもしれません。

そして常陸大宮市美和・高部地区に出ます。

さて、地図の圷地区の西に高久という地名がありますが、ここにアテルイの首(ミイラ)を奉納したと伝えられる鹿島神社(こちら)があるのも興味をそそります。

いずれにしてもやはりこの手子后(てごさき)神社は古墳時代の何かと関係しているように感じます。

神栖市にある手子后神社の近くの古墳と言うと、息栖神社が今の地に移される前にあったという日川地区周辺に少しあるようですが見にいったことはありません。

今度時間が取れたら寄り道して見たいと思います。


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手子后神社 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/29 18:22
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