海了寺(麻生)
連休中で頭もボケてしまっているが、昼間からテレビはつまらぬことばかり。
札幌で爆発事件の被疑者の女性が逮捕され、テレビはこぞってその被疑者の過去だとか、生活の噂話、自宅まで映し出している。
でも警察からの発表は証拠となる事柄を小出しにして如何にも犯人に間違いがないとマスコミを誘導しているように見える。
これが誤認逮捕だったら警察はどのような言い訳をするのだろうか。マスコミももう少し週刊誌的な発想で被疑者を追いかけるのはやめた方がいいのではないかと思ってしまう。
起訴がされてからでもいいのではないかと思う。
そして取り調べの可視化の案が次の日に出てくる。さて今度の事件にこれが適用されるのかと思いながら内容を見て見ると何とも後ろ向きな内容でとても冤罪を防止できる代物ではないようだ。
もう少し検察、警察も反省して全てを可視化、ビデオで残す位な事を真剣に考えてもらいたい。
今回の物証を聞いているだけではとても逮捕に結び付けられるようなものはないように思う。
パソコンの遠隔操作事件もしかり。相棒の杉下右京のような鋭い推理がないものな~。
さて、昨日紹介した旧麻生町の羽黒山公園(麻生城跡)の裏手にこの海了寺があります。
国道355線沿いに寺の案内板がありましたので立寄って見ました。
水路沿いの細い道を走っていくと周りは水田が広がっています。

この水田の間の道を入ったところにこの海了寺がありました。
正面に見える門が寺の入口です。そして左手の裏山がお墓のようです。
この裏山は羽黒山と繋がっているのでしょうか。

下の説明文にあるようにここは戦国時代までの麻生氏とは関係なく、江戸時代になって摂津(大阪)の高槻にいた新庄氏が行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石(後に分散していた領地を分離して最後は1万石)を得てここ麻生に居を構え麻生藩が出来たのです。
この新庄藩主3代目(新庄直好)の時にここ海了寺を菩提寺として建立したという。

しかし、説明文に書かれたことから見ると新庄家の墓は4代目の新庄直時だけがここに葬られているのだそうです。
この直時は3代目藩主の新庄直好に子供が無く養子に入っていたのですが、高齢で実子が生まれ跡を継ぐのは実子直矩の予定でしたが直好がその後しばらくして亡くなってしまい直時が4代目となりました。
そして直矩が15歳になったので直矩が5代目藩主になりました。しかしこの直矩は17歳で急死してしまいその継嗣持いないために後継者を幕府に無断で擁立しようとして麻生藩は一時改易されてしまいました。
幕府は4代目の直時が7000石旗本となっていたのをこの麻生藩の6代目にして麻生藩が再興されたのだそうです。

寺の裏側に回ると山の方に道が続いていてそこが新庄家の墓所のようです。
その登り口に大きな五輪塔がおかれています。かなり立派なものです。
説明にあるように4代(=6代)藩主の新庄直時の五輪塔だと思われます。
その他の新庄家歴代の藩主の墓や五輪塔は東京駒込の吉祥寺にあり、みな立派な五輪塔も残されています。

坂道を登るとそこに直時の墓碑が置かれています。

ひっそりと佇む墓碑が寂しく・・・。
吉祥寺にはたくさん寄り添うようにまとまって新庄家の墓が並んでいるようです。
八百屋お七の供養塔や二宮尊徳の墓、函館五稜郭で官軍に抵抗した榎本武揚の墓などもこの駒込吉祥寺にあるそうです。
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札幌で爆発事件の被疑者の女性が逮捕され、テレビはこぞってその被疑者の過去だとか、生活の噂話、自宅まで映し出している。
でも警察からの発表は証拠となる事柄を小出しにして如何にも犯人に間違いがないとマスコミを誘導しているように見える。
これが誤認逮捕だったら警察はどのような言い訳をするのだろうか。マスコミももう少し週刊誌的な発想で被疑者を追いかけるのはやめた方がいいのではないかと思ってしまう。
起訴がされてからでもいいのではないかと思う。
そして取り調べの可視化の案が次の日に出てくる。さて今度の事件にこれが適用されるのかと思いながら内容を見て見ると何とも後ろ向きな内容でとても冤罪を防止できる代物ではないようだ。
もう少し検察、警察も反省して全てを可視化、ビデオで残す位な事を真剣に考えてもらいたい。
今回の物証を聞いているだけではとても逮捕に結び付けられるようなものはないように思う。
パソコンの遠隔操作事件もしかり。相棒の杉下右京のような鋭い推理がないものな~。
さて、昨日紹介した旧麻生町の羽黒山公園(麻生城跡)の裏手にこの海了寺があります。
国道355線沿いに寺の案内板がありましたので立寄って見ました。
水路沿いの細い道を走っていくと周りは水田が広がっています。

この水田の間の道を入ったところにこの海了寺がありました。
正面に見える門が寺の入口です。そして左手の裏山がお墓のようです。
この裏山は羽黒山と繋がっているのでしょうか。

下の説明文にあるようにここは戦国時代までの麻生氏とは関係なく、江戸時代になって摂津(大阪)の高槻にいた新庄氏が行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石(後に分散していた領地を分離して最後は1万石)を得てここ麻生に居を構え麻生藩が出来たのです。
この新庄藩主3代目(新庄直好)の時にここ海了寺を菩提寺として建立したという。

しかし、説明文に書かれたことから見ると新庄家の墓は4代目の新庄直時だけがここに葬られているのだそうです。
この直時は3代目藩主の新庄直好に子供が無く養子に入っていたのですが、高齢で実子が生まれ跡を継ぐのは実子直矩の予定でしたが直好がその後しばらくして亡くなってしまい直時が4代目となりました。
そして直矩が15歳になったので直矩が5代目藩主になりました。しかしこの直矩は17歳で急死してしまいその継嗣持いないために後継者を幕府に無断で擁立しようとして麻生藩は一時改易されてしまいました。
幕府は4代目の直時が7000石旗本となっていたのをこの麻生藩の6代目にして麻生藩が再興されたのだそうです。

寺の裏側に回ると山の方に道が続いていてそこが新庄家の墓所のようです。
その登り口に大きな五輪塔がおかれています。かなり立派なものです。
説明にあるように4代(=6代)藩主の新庄直時の五輪塔だと思われます。
その他の新庄家歴代の藩主の墓や五輪塔は東京駒込の吉祥寺にあり、みな立派な五輪塔も残されています。

坂道を登るとそこに直時の墓碑が置かれています。

ひっそりと佇む墓碑が寂しく・・・。
吉祥寺にはたくさん寄り添うようにまとまって新庄家の墓が並んでいるようです。
八百屋お七の供養塔や二宮尊徳の墓、函館五稜郭で官軍に抵抗した榎本武揚の墓などもこの駒込吉祥寺にあるそうです。


吉祥寺と言えば思い出すものがありました。
八百屋お七のお墓→鈴ヶ森刑場で火炙り
二宮尊徳→小田原に行った時、かの地で
活躍され、生家があり。
榎本武揚→先日行った東京農大の校長さんだった
と、えんがありそうな話がいっぱいでしたので
それらのお墓と新庄家お墓、ぜひ見に行きたいです。
おばんです、Romanさん、またお邪魔します。
駒込の吉祥寺は太田道灌ゆかりのようで、昔はとても大きな寺だったようです。
江戸の旗本などの墓もたくさんあるようですよ。
きっとそちらの縁がありそうな人のお墓もあると思います。
この新庄家はその中でも100坪以上の敷地にたくさん五輪塔が立っているのできっとわかると思います。
私も行く機会があったら行ってみたいと思っています。
ご参考になれば幸いでございます。
駒込吉祥寺は武蔵野の吉祥寺の地名の由来となったお寺で、和田倉門あたりに開創し、駿河台(水道橋のあたりはこの時代には吉祥寺橋と言われて吉祥寺の表門橋がありました)、駒込と移転してきたお寺です。
(現在の武蔵野の吉祥寺一帯はかつて駒込吉祥寺の飛び地の領地だったために吉祥寺の地名が残ったと言われています)
江戸時代には昌平坂学問所と並ぶ学術機関の旃檀林を擁して常時一千人の学僧が学ぶ江戸でも最大の規模を誇る大寺院でした。ちなみにこの旃檀林は現在の駒澤大学の前身です。
二十四家の大名の菩提寺として栄えましたが、現在残っている大名家のお墓は新発田藩溝口家、常陸麻生藩新庄家、筑後柳川藩田中家、上野七日市藩前田家、松前藩松前家、上野安中藩板倉家です。
ちなみに旗本は甲斐庄家、鳥居家、丹羽家のお墓があります。
幕末から明治頃の著名人のお墓として鳥居忠耀、榎本武揚、赤松則良、安場保和のお墓もあります。
曹洞宗の寺院としては江戸時代に全国の曹洞宗寺院を三分割して統治した関三刹(下野大中寺、武蔵龍隠寺、下総総寧寺)、東海道の四ヵ国を統治した東海道大僧録(遠江可睡斎)と同格、関三刹の筆頭末寺である江戸触頭三ヵ寺(泉岳寺、総泉寺、青松寺)の上位に置かれ、江戸第一の格式を持つ寺として隆盛を極めました。
現在の敷地は1万数千坪あるといわれます。
ぜひ一度お参りしてみてください。都内の一、一般寺院とは思えない規模に圧倒されます。
大変貴重な情報ありがとうございます。
とても興味深い内容であり、今度時間を見つけて行ってみたいと思います。
中央線の吉祥寺には昔からよく遊びに行っていましたが、そんな歴史があったのは気が付きませんでした。
これからも何かございましたらよろしくお願い致します。
大名家のお墓は前述の大名家以外にも安房北条藩屋代家、肥前福江藩五島家、信濃高島藩諏訪家。
旗本については水野家のお墓もありました。
失礼いたしました。
益々興味が湧いてきました。
ありがとうございました。