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天保水滸伝所縁の里(1)-笹川繁蔵の最後地

 千葉県東庄町の東庄交番の信号から旭市(飯岡)方面に走る県道266号線がある。
信号から少しいったところを左に入る細い道がある。
その道を道なりに200mほどいったところに「笹川繁蔵最後の跡」という石碑が置かれている。

諏訪大神の境内にある天保水滸伝遺品館で観光案内のパンフレットを頂いて地図を見て一度探したがわからずに次に訪れた時に見当をつけていて見つかった。(最初はもう一つ先の脇道を探してしまった)

まあ見つけられなかったからどうということもないが、気になるとやはり見ておきたくなる。

天保水滸伝などというとまあ今の世の中に興味を持つ人はどれくらいいるのかわからないし、特に女性には多分ほとんど興味もないのかもしれない。

しかし、佐原から小見川に来てこの東庄(ひがしのしょう)町にくると、この笹川繁蔵を考えずに素通りはできないようだ。

あまり最初は興味もなかったが、調べて行くうちにこれを理解しないと飯岡や笹川の町、また東庄33郷の壮大な荘園を領した鎌倉時代以降の歴史も見えてこないように感じた。

くだらないようにも思うが、ここ数カ月にわたって、この近くを散策した時に見た風景などを順に紹介していきたいと思う。

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この場所は笹川の中心地とは目と鼻の先。確かに昔はここと飯岡はこの道も繋がっていたのかもしれない。

この場所で笹川繁蔵は飯岡(石渡)助五郎の手先に待ち伏せされ命を落とした。38歳であった。
この時助五郎の手下は3人(成田甚蔵、三浦屋孫治郎らの)で皆虚無僧姿に変装していたと言う。
大利根河原の決闘が天保15年(1844年)で、その後一時身を隠していた笹川繁蔵がこの地に弘化4年(1847年)春に戻って来てそれほど経たない同年7月4日のことだという。

ここには小さな川が流れていてその川に架かる橋の名前を「ビヤク橋」という。

この助五郎の子分たちは、繁蔵の首を飯岡に持ち帰り、そして胴体は利根川に流されたと伝わっていた。

そのため笹川方の子分達は亡骸の代わりにこの土地の土などを持ち帰り埋葬したと。

そして飯岡助五郎は持ち帰った首を海に捨てよと命じたが孫次郎らが丁寧に埋葬して弔ったと伝わった。

しかし事実は助五郎により丁寧に葬られ、弔われたと・・・・

そしてこれが長い間何処にあるか不明であったとも言う。

この続きは飯岡に行かないとわからないので明日書きます。

(興味のない方はこの下はパスして下さい)
その前に天保水滸伝の概要を少しだけ書いておきます。

これもあまり興味もわかなかったので読む人だって面白くないに決まっている。
江戸時代に大衆芸能として浪曲などで人気を博したまあ任侠物で、清水次郎長に森の石松、国定忠治の赤城山。

まあ時代劇が花盛りなら話も興味が出るが、今では時代劇も製作するにも道具も殺陣師も昔の建物だって段々自由にならない時代で自然と消えゆくのかもしれない。アメリカでさえ西部劇など最近は聞いたこともない。

それでも少しは調べて見たので記録として残しておきたい。

1792年に相模国山崎(現横須賀市三春町)で飯岡助五郎(本名石渡助五郎)は生まれた。半農半漁の家の長男であったが身体も大きくて力持ちで、ある時町に地方巡業に来ていた相撲の友綱親方に見込まれて弟子入り(1807年)し、江戸で角力(相撲)取りになる。しかし、江戸で頼りにしていた親方が死に、相撲取りを1年程で廃業し、地引網漁でにぎわっていた九十九里浜にやってきて漁師となる。
そして更に飯岡が鰯漁でにぎわっていたため飯岡に来て、力自慢や人情味の良さで次第に頭角を現す。
玉崎神社の奉納相撲で名を上げ、銚子から飯岡で縄張りを持っていた五郎蔵親分から網元と縄張りを譲り受けてこの地方の大親分になっていった。

一方笹川(岩瀬)繁蔵は1810年にこの笹川から少し西に行った下総国須賀山村の醤油・酒の醸造を営む大きな家の三男として生まれた。やはり力が強く、地元の相撲で有名になり相撲取りを目指して江戸に行って千賀ノ浦部屋に入門するがこちらも1年ほどで角力(相撲)を廃業し、博打うちの世界(任侠)に入り、故郷に近い笹川で一家を興す。

この地方は当時も米どころで豊かな土地であったが、冷夏で飢饉の年も続いた。そこで繁蔵がとった行動は、関東・東海各地の大親分を集めて大花会(親分だけの賭博)を開き、資金を集めることであった天保13年(1842年)。
清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎などがやってきたと言われるが何処まで本当かはわからない。

さあ、その頃飯岡助五郎は銚子から飯岡などの縄張りに十手まで預かる身になっており、笹川の勢力が自分の所の勢力域を脅かされない勢いとなり無視できなくなっていた。
まあ中間域の博打場の寺銭を奪い合う事がおき、お互いの一家が争い始め、そのうちに血気にはやるやくざ者がお互いの親分の命まで狙い始めたというところだろう。

そこで天保15年(1844年)8月に飯岡一派が笹川一家に殴り込みをかけたのである。その時は川の方からと陸の方からと二手に分かれて襲ったと言う。(大利根河原の決闘)

結果は笹川一家では助っ人として駆け付けた平手造酒(みき)ただ一人が亡くなり、飯岡方では3人が亡くなったと言われている。
この平手造酒も酒乱でもあったが千葉道場門下の凄腕で、当時結核を患っていたなどと浪曲などでのキャラクタが定着しており何処までが本当なのかはよくわからない。三波春雄の歌などではこのキャラクタとして登場します。

この決闘は笹川方の勝利となりましたが、そこは十手も預かる飯岡方の追及も江戸幕府にも届き笹川繁蔵は追われる身となります。そして3年近くほとぼりを冷ますためにこの地を離れて、追及も緩んだとして1847年春に笹川に戻ります。

戻った後はこの繁蔵を慕う者に対し助五郎の息のかかった者もおり、最初に書いたようにビヤク橋のたもとで虚無僧姿の助五郎の子分に闇討ちされ、首を持ち去られてしまいました。胴体も消えていました。

さて、水滸伝と言うのは当然中国の水滸伝(15世紀に書かれた)から付けられた名前ですが、水滸とは「水のほとり」という意味であるので話が似ていること、また有名な梁山泊に108人程で立てこもり、悪徳官史を倒す話が何処となく似ているとして、講談や浪曲でのインパクトから考えられた名前と言えるでしょう。
梁山泊に対してこちらでは笹川繁蔵亡きあとに、繁蔵を慕って集まった者たちが一の子分の勢力富五郎を中心に集まり、助五郎一家や関東取締出役に追われ、金毘羅山(勢力山)に逃げ込み52日間幕府に反抗して捕まらなかったというのもどこか似ているのかもしれません。
しかし最後は自刀して果てたようです。

この勢力富五郎は万歳村の出身といいます。墓は笹川の延命寺に平手造酒の墓と共にあります。

先日旭市を車で走っていてこの万歳の名前を見かけました。変わった名前で覚えています。
また近くに干潟などの名前をみられますので、干拓地当たりにも笹川一家の勢力がかなり広がっていたのかもしれません。



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天保水滸伝 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/21 18:41
コメント
興味深く読ませて頂きました
確かにマニアックでありますが、そんな史実が
あったのですね~
水滸伝を小さい頃めちゃ楽しみにしていた私ですので、
ワクワクしてきました。このあとが楽しみです、
おばんです、Romanさん、またお邪魔します。
kozoh55さん
こんばんは。

> 確かにマニアックでありますが、そんな史実が あったのですね~

もう古くくたびれた任侠物語もどのようにスポットを当てたらいいのか・・・。
まあこんな書き出しだったら少しは面白くなるだろうかと・・・
でも所詮は今の年代にはあまり受けませんね。

> 水滸伝を小さい頃めちゃ楽しみにしていた私ですので、
> ワクワクしてきました。このあとが楽しみです、

この笹川と飯岡を数回にわたりここ2ヵ月ほどで4から5回訪れていました。
もちろん天保水滸伝を探していたわけではないのです。
でも目につくのはこの話ばかり。
少しまとめて見たくなったのでもう数回お付き合いください。(笑)

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