天保水滸伝所縁の里(2)-笹川繁蔵の首塚

 旭市飯岡の玉崎神社は何度かにわたって紹介した。(その1その2その3その4その5

そしてその最後(その6)で飯岡助五郎の碑を紹介した。

今日は昨日の笹川繁蔵が闇討ちにあって飯岡側に持ち去られた繁蔵の首の行方の話です。

この玉崎神社のすぐ裏手を少し行くと定慶寺という真言宗智山派の寺がある。
その寺と反対側の墓地に「笹川繁蔵之首塚」と書かれた立派な石碑が立てられている。

さて、昨日書いた繁蔵が打ち取られたときに首と胴体はバラバラにされたのですが、昭和7年に本銚子(植松町3丁目)の道路改修の時に町営のある墓地から繁蔵の墓標とともに胴体が発見された。

胴体は利根川に流されたと長い間伝わってきたのですが、ちゃんと埋葬されていたのです。

首は飯岡助五郎の子分であり繁蔵を襲った三浦屋孫次郎が丁寧に埋葬して一生をかけて弔ったとかいわれるが、実際は助五郎は浪曲などに描かれたような悪人ではなく。繁蔵を闇討ちしたのも自分の意志ではなかったように思われます。

胴体は繁蔵の戒名を書いた墓標により発見されましたが、首の方はどうしたのでしょうか。
この定慶寺の首塚に埋葬されていたのでしょうか。

実はこの首は胴体の発見の翌年に存在が判明したようです。
それは胴体の発見により首の部分もあるはずなので笹川に戻してほしいとの申し入れが飯岡側にあり、探して判明したようです。
それは助五郎が自宅近くの山林に丁寧に埋葬し、毎年供養を行っていたようです。
助五郎はこの首塚に戒名「清岩繁勇信士」をつけ、これを石碑に刻んでいました。

そして、首も笹川側に戻されたようですが、この石碑はこの飯岡の定慶寺におかれ、首塚の碑が立てられたのでしょう。

頭の遺骨も笹川の街中の延命寺にある平手造酒と勢力富五郎の墓の中間に埋葬され、笹川繁蔵之碑が立てられたようです。

笹川のビヤク橋で繁蔵が殺されたときに部下や愛人が駆け付けたがすでに死体は無く、そこに残された土などを持ち帰り埋葬したと言われています。

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この石碑は地元の平野普次郎氏が繁蔵の首と胴を合わせてそれを弔うために、昭和8年にここに建てたものです。
そして遺骨は笹川方に戻されたのでしょう。

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寺の境内には「首洗い井戸」というのも残っているそうですが、どれか良く分かりません。

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天保水滸伝 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/22 16:21
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