天保水滸伝所縁の里(3)-飯岡助五郎の墓
飯岡助五郎はこの旭市飯岡では比較的評判も良く町の復興にも尽力した良い人と伝わっているようです。
まあ所詮は賭博の元締めでもあったようですからその評判も色々ではあったと思います。
しかし、3年前の大震災で起きた津波でこの飯岡が大きな被害を受けました。
そして江戸時代にも同じように津波などで被害があったそうです。
その当時、自分の出身であった三浦半島の方から多くの漁師を送りこんで鰯漁を廃れさせず、沿岸の堤防などの設置などで大変な功労者と言われています。
さて、その助五郎は天保水滸伝では悪役という設定ですが、これも話を面白くし、判官びいき(義経が判官と言われたことから出た言葉で弱い者の味方をしたい心理)を利用した作り話の要素が多そうです。

この飯岡助五郎の墓は、昨日書いた定慶寺からほど近い光台寺にあります。
周りを田んぼや畑で囲まれたような場所です。
助五郎の菩提寺ということですが、思ったより大きな寺ではありません。

現国山光台寺といい、浄土真宗のお寺です。
江戸の桜田にあったものが、慶長年間(1596~1615年)にこの地に移転したのだと言う。
山門には桐花の紋が付けられていた。何時頃からどのようにしてこの紋になったのかは不明。

本堂にはこの地方に多い龍の彫り物があった。

これが助五郎の墓。享年67歳で任侠者としてはまっとうに畳の上で亡くなったようだ。

玉崎神社などで大きな石碑が置かれ、力石などが祀られ、助五郎神社まで作られている人物にしては実際の墓の場所や規模はまずまず普通であり意外な感じがした。
明日は笹川の繁蔵菩提寺である延命寺を紹介します。
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まあ所詮は賭博の元締めでもあったようですからその評判も色々ではあったと思います。
しかし、3年前の大震災で起きた津波でこの飯岡が大きな被害を受けました。
そして江戸時代にも同じように津波などで被害があったそうです。
その当時、自分の出身であった三浦半島の方から多くの漁師を送りこんで鰯漁を廃れさせず、沿岸の堤防などの設置などで大変な功労者と言われています。
さて、その助五郎は天保水滸伝では悪役という設定ですが、これも話を面白くし、判官びいき(義経が判官と言われたことから出た言葉で弱い者の味方をしたい心理)を利用した作り話の要素が多そうです。

この飯岡助五郎の墓は、昨日書いた定慶寺からほど近い光台寺にあります。
周りを田んぼや畑で囲まれたような場所です。
助五郎の菩提寺ということですが、思ったより大きな寺ではありません。

現国山光台寺といい、浄土真宗のお寺です。
江戸の桜田にあったものが、慶長年間(1596~1615年)にこの地に移転したのだと言う。
山門には桐花の紋が付けられていた。何時頃からどのようにしてこの紋になったのかは不明。

本堂にはこの地方に多い龍の彫り物があった。

これが助五郎の墓。享年67歳で任侠者としてはまっとうに畳の上で亡くなったようだ。

玉崎神社などで大きな石碑が置かれ、力石などが祀られ、助五郎神社まで作られている人物にしては実際の墓の場所や規模はまずまず普通であり意外な感じがした。
明日は笹川の繁蔵菩提寺である延命寺を紹介します。


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