天保水滸伝所縁の里(5)-清滝佐吉伝承碑
天保水滸伝に登場する人物で笹川方で任侠三士(笹川繁蔵・平手造酒・勢力富五郎)とともに、この旭市側で長い間語り伝えられている人物がいた。
清滝村の佐吉(清滝佐吉)である。

2009年に佐吉の160回忌に合わせて、この伝承碑が完成した。ここは墓所でもあり薬師堂がある。
清滝村の佐吉は岩井滝不動(龍福寺)(記事こちら1、こちら2)近郊の村の出身で、笹川方についていた。
そして最後は勢力富五郎などと共に飯岡助五郎をはじめとする十手方に追われ捕らわれの身となり江戸に送られた。
江戸ではこれらの博徒達は皆処刑された。中でも数人は見せしめのため獄門さらし首となった。
佐吉もその一人であった。

こんな細かな説明も石に刻まれている。
また境内にこの伝承を伝えるチラシが置かれていました。

書かれている文字の数があまりにも多く良く読めません(読みたい人はクリックして拡大すれば読めます)
しかし、ここに書かれている内容は一般的な事が書かれているに過ぎ無いように思います。
清滝にある岩井滝不動(龍福寺)については前に訪れていたので、すぐ前は椿海の干拓で広がった水田が広がる場所で、江戸の後期には江戸の米どころとして大分有名だったように思います。
そこに佐吉という力自慢の若者がこのの賭博場や滝不動の祭りの寺銭を取り仕切っていたようです。
そして場所柄飯岡助五郎の縄張りに近いためにこの勢力にとりこまれそうになったのでしょう。
そこで佐吉は笹川繁蔵の方につくことで自分の縄張りを守ろうと思ったようです。
天保水滸伝の話はこの寺銭をめぐって笹川と飯岡の争いとなり、飯岡助五郎を襲ったが怪我をしただけで助かった助五郎がそのし返しに笹川方を襲ったのが大利根河原の決闘となったと・・・・。
まあこの話は何処までが本当かはわかりませんが、訪れて見ると笹川と飯岡の中間というよりはあきらかに飯岡側に近い場所です。
また勢力富五郎も万歳村出身で、こちらはやはりこの椿海干拓地の場所です。
この干潟八万石の勢力の争いも大きく影響しているように思います。
この時代(ペルーが浦賀に来た頃)に地元の力自慢がこのように任侠の世界に入り、賭博で資金稼ぎ。
そしてほとんどが角力(相撲)とりになったりしていますのでその頃の相撲という世界には親分と呼ばれる地方の任侠者とのつながりが強かったこともあるようです。
浪曲などでは、この江戸での処刑でこれらの事件を知った後に、天保水滸伝(大衆娯楽物)として面白く作られていったものだと思います。
現地説明文の最後の結びに書かれていたことを文字にしてみました。
「 浪曲や映画・小説などで広く知られる「天保水滸伝」は、面白いようにつくられた物語ですから、物語は物語として楽しむことであり、善悪や真偽を問う議論にはなじまないことがらです。歴史としても、資料には勝者・敗者の記録があり、書き残されなかった歴史や、語ることのできなかった歴史があり、密かに伝えなければならなかった歴史もあることを考えるとき、嘉永二年の大捕物で処刑されたり自決した仁侠のことも、視点を変えて、新たな光りを当てれば新たな実像が浮かび上がります。処刑されたということも、現代の裁判に於けるそれとは異なり、言い訳無用、切り捨て御免の時代であったことを伝えるとともに、天保水滸伝によって飯岡・笹川の名が全国に知られ、「清滝」をはじめ村々の名が出てくることも愉快な話として受け止め、名物男たちのことは名物男として永く語り伝えたいところです。(清滝佐吉伝承会)」
私のブログ水滸伝記事もこの辺で幕にしましょう。
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清滝村の佐吉(清滝佐吉)である。

2009年に佐吉の160回忌に合わせて、この伝承碑が完成した。ここは墓所でもあり薬師堂がある。
清滝村の佐吉は岩井滝不動(龍福寺)(記事こちら1、こちら2)近郊の村の出身で、笹川方についていた。
そして最後は勢力富五郎などと共に飯岡助五郎をはじめとする十手方に追われ捕らわれの身となり江戸に送られた。
江戸ではこれらの博徒達は皆処刑された。中でも数人は見せしめのため獄門さらし首となった。
佐吉もその一人であった。

こんな細かな説明も石に刻まれている。
また境内にこの伝承を伝えるチラシが置かれていました。

書かれている文字の数があまりにも多く良く読めません(読みたい人はクリックして拡大すれば読めます)
しかし、ここに書かれている内容は一般的な事が書かれているに過ぎ無いように思います。
清滝にある岩井滝不動(龍福寺)については前に訪れていたので、すぐ前は椿海の干拓で広がった水田が広がる場所で、江戸の後期には江戸の米どころとして大分有名だったように思います。
そこに佐吉という力自慢の若者がこのの賭博場や滝不動の祭りの寺銭を取り仕切っていたようです。
そして場所柄飯岡助五郎の縄張りに近いためにこの勢力にとりこまれそうになったのでしょう。
そこで佐吉は笹川繁蔵の方につくことで自分の縄張りを守ろうと思ったようです。
天保水滸伝の話はこの寺銭をめぐって笹川と飯岡の争いとなり、飯岡助五郎を襲ったが怪我をしただけで助かった助五郎がそのし返しに笹川方を襲ったのが大利根河原の決闘となったと・・・・。
まあこの話は何処までが本当かはわかりませんが、訪れて見ると笹川と飯岡の中間というよりはあきらかに飯岡側に近い場所です。
また勢力富五郎も万歳村出身で、こちらはやはりこの椿海干拓地の場所です。
この干潟八万石の勢力の争いも大きく影響しているように思います。
この時代(ペルーが浦賀に来た頃)に地元の力自慢がこのように任侠の世界に入り、賭博で資金稼ぎ。
そしてほとんどが角力(相撲)とりになったりしていますのでその頃の相撲という世界には親分と呼ばれる地方の任侠者とのつながりが強かったこともあるようです。
浪曲などでは、この江戸での処刑でこれらの事件を知った後に、天保水滸伝(大衆娯楽物)として面白く作られていったものだと思います。
現地説明文の最後の結びに書かれていたことを文字にしてみました。
「 浪曲や映画・小説などで広く知られる「天保水滸伝」は、面白いようにつくられた物語ですから、物語は物語として楽しむことであり、善悪や真偽を問う議論にはなじまないことがらです。歴史としても、資料には勝者・敗者の記録があり、書き残されなかった歴史や、語ることのできなかった歴史があり、密かに伝えなければならなかった歴史もあることを考えるとき、嘉永二年の大捕物で処刑されたり自決した仁侠のことも、視点を変えて、新たな光りを当てれば新たな実像が浮かび上がります。処刑されたということも、現代の裁判に於けるそれとは異なり、言い訳無用、切り捨て御免の時代であったことを伝えるとともに、天保水滸伝によって飯岡・笹川の名が全国に知られ、「清滝」をはじめ村々の名が出てくることも愉快な話として受け止め、名物男たちのことは名物男として永く語り伝えたいところです。(清滝佐吉伝承会)」
私のブログ水滸伝記事もこの辺で幕にしましょう。


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