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須賀山城跡

 天保水滸伝の記事を終わりにしたが、東庄町の中心にある諏訪大神のお祭りに「大木戸」地区の神輿が出る。

地名では大木戸公民館がある辺りで、先日紹介した笹川繁蔵最後の地の入口あたりの地区を言うようだ。

先日天保水滸伝史跡伝承館(東庄町観光館)の建物の前に、前には無かったかんばんが置かれていた。

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この看板は昨年3月に建てられたようなので、前に来た時はそれより以前であったようだ。

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須賀山城(すかやまじょう)はこのこんもりとした山の上にあった。

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山の入口には「北総育成園」という障害者支援施設がある。
この建物は「紙工芸班作業所」となっている。シイタケ栽培なども行っているようだ。
その他に陶芸班などもあり、作品を作ってイベントや各種施設で販売なども行っているようだ。

下の施設?の駐車場に車を止めて城跡と書かれた案内板にしたがって山を登っていった。
登り口で施設の生徒さんのグループに会い、「こんにちは」と挨拶を交わしてから登った。

いつもこう言う時に、健常者より障害者の方達の方が気持ちよく挨拶してくれる。

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山を登っていくと、所々に広場があり、伐採された木を束ねて積み重ねてあります。
薪にするのでしょうか。シイタケ栽培も盛んのようです。

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山の上に到着し、右に曲がった先に看板を発見しました。

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須賀山(すかやま)城跡とその説明看板

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上の現地に掲げられた説明文を文字におこしてみると

「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。
その後も、須賀山城には一族が居城したと思われ、東頼数(とうのよりかず)、教頼(のりより)、常綱(つねつな)等の在城が伝えられている。
須賀山城は、千葉介胤富(ちばのすけたねとみ)の森山城入城と共に破却されたといわれている。
尚、千葉胤富判物(原文書)に、森山城の「外郭部」として取り込まれていたと推定される記載がある。
須賀山城は、多郭雑形で、遺構は空堀と土塁の一部を残すのみで、
本丸跡は通称「シジミ台」といわれている。・・・・・・・・・」

どうですか? わかりますか。歴史に興味のある方はわかるかもしれません。
しかし常陸国国府の石岡周辺にいて聞く話は、すぐに平国香がどうしたこうしたとかのの話しか聞こえてきません。
千葉県には上総、下総、安房とそれぞれの歴史が繋がっていて理解するのも結構大変そうです。

昔の人の名前もまともに覚えられないのですから、記憶力の衰えた文系オンチな老人にはなかなか素直に話が入ってきません。こう言う時はしょうがないので一つずつネットで調べます。そして自分の頭で少し理解が出来たと思うと安心するのです。

まず千葉常胤ですがこの人の名前は聞いたことがあります。
「桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介(ちばのすけ)。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。」と説明にあります。

上総広常は知っている。これは上総介(平広常)で、石岡の歴史にも源頼朝と佐竹氏討伐に石岡にやって来ている。大矢橋で佐竹義政を切った人物だ。(記事はこちら)、頼朝の見方をして最後は疑われて切られてしまった人物である。

平広常も千葉常胤も共に高望王の子供(長男は国香)である平良文の子孫だ。この付近は良文貝塚(記事はこちら)などもあり、良文の子孫が暮らしてきた場所であろう。

ではこの城を築いた東胤頼とはどんな関係なのか?また調べます。

「千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。」とあります。
父の千葉常胤とともに源頼朝にしたがって、安房国へ逃れた頼朝への加勢をすると共に坂東武士団の頼朝加勢の原動力になったようだ。そして報償として東荘を拝領して(1185年)東氏を名乗るようになった。
その東氏の城がこの須賀山城で1190年に築城して16世紀半ばまで続いたが千葉 胤富(千葉氏27代)隣の森山城に移りこの城は廃棄されたという。

千葉氏も謎めいているし、今の千葉市(千葉荘)のあたりから見ると大分離れていて遠い感じはあったのでしょうね。
しかし、この地は霞ヶ浦、利根川の水運が発達していた頃には要の場所だったのでしょう。
利根川流域を抑える中間(海上郡と香取郡の中間)として重要な場所といえたのです。

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山の上には小さな祠が祀られていた。これも調べて見ると「六所神社」であるらしい。

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もう少し調べる時間が許せば理解も深まるのでしょうが、毎日適当に話題を提供はしているものの仕事もおろそかにはできません。いつまで続けることが出来るのか・・・。

妙見尊星王も気になるのですが、これは千葉県の寺を巡るとたくさん出てきますし、日蓮宗の寺では妙見菩薩の名前はあちこちで聞こえてきます。まあ今は千葉氏の守護本尊という程度にしておきます。



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小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/27 21:22
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