飯高壇林跡(3)-妙福寺

 立派な飯高壇林をみて、その歴史を調べて行くと少し気になるものがあった。

天正元年(1573)要行院日統(ようぎょういんにっとう)が光福寺(匝瑳市飯塚)に学室を開いた。
天正8年(1580)平山常時が寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
天正8年(1580)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生(きょうぞういんにっしょう)を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
天正8年(1580)法輪寺・日尊は妙福寺の壇林を法輪寺に移す。
天正19年(1591)法輪寺を飯高寺と改称する。(家康から朱印30石を与えられる)
慶長元年(1596)飯高寺・日尊が飯高檀林を開檀する。
(Wikipedia等による)

どうも良く分からない。もう少し見て行こう。

教蔵院日生は元々は京都の天台宗の僧侶であったが東国から日蓮宗がもたらされ、日蓮宗に改宗した?
そして、京都洛北の松ヶ崎地区に日蓮宗派のため松ヶ崎檀林本涌寺を日生が1574年に設立した。
この松ヶ崎地区には歓喜寺という寺があったが、鎌倉時代末に日像が京都布教をおこないこの地区に広がった。
そしてその歓喜寺住職であった実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺とした。
(現在は妙泉寺と本涌寺が一体となって「涌泉寺」となっている)

飯高壇林の前身としても学問所は1573年に要行院日統が始めた。
教蔵院日生が洛北の松ヶ崎壇林を始めたのは1574年。ほぼ同一時期。

京はやはり学問の中心地であり、そこから教蔵院日生を千葉に迎えて光福寺の学問所を妙福寺に移し、飯高壇林が始まった。

そして同じ年に現在の平山氏の広大な場所に移された。まだよく分からないがまた少しずつ紐解けばよいだろう。

わずかな期間だがこの寺に学問所が置かれたのだろう。
最初にあったという光福寺というのはここより2~3km程東の飯塚地区です。

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飯高寺(はんこうじ)は山の中腹にあるが、この(妙見山)妙福寺は麓の低い場所にあるが、裏手はスタジイなどの木々で覆われている場所です。

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妙福寺は延慶3年(1310)に進藤太縦空が守護神として妙見尊を祀り建立したものです。

いまは日蓮宗です。

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この寺もかなりの古刹で水戸光圀が訪れ、梅の木をお手植えになったが、その梅の木が枯れ水戸偕楽園から梅の木が贈られた。
境内に文和5年銘(1356年)の板碑が残っている。

正面のお堂が「妙見堂」です。

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お堂の扁額は何と書いてあるのか?「北辰?」北極星? でしょうか。妙見堂とは書かれていない。

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寺の手前は田が広がり、写真の右側の森はこの妙福寺の山門があるところで、その先の山の方に飯高寺(飯高壇林跡)があります。

この妙福寺の裏手の山(写真の反対側)の上に飯高神社があります。明日はそちらを紹介します。

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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/05 18:41
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