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日本寺(中村壇林跡)2/2

 飯高壇林と中村壇林 ほんの3kmくらいしか離れていない所に同じ日蓮宗の大きな壇林(学問所)が2つある。
やはり特異に感じてしまう。
こんなことが気になると記事はまとまらない。
のんびりやればいいのだがある程度は自分で納得しないと書けない。
しかしブログも毎日の更新を続けていると時間のかかる調べ物は後回しになってしまう。
それでも書きだしたので止められない。困ったな・・・

Wikipediaから少し歴史を整理して見たい。

<飯高壇林(飯高寺)>
・1573年(天正1年)要行院日統が光福寺(匝瑳市飯塚)に飯塚檀林を開檀する。
・1580年(天正8年)平山常時は寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
・1580年(天正8年)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
・1580年(天正8年)法輪寺・日尊は飯塚檀林を法輪寺に移す。
・1591年(天正19年)法輪寺は名称を飯高寺と改称する。
・1596年(慶長1年)飯高寺・日尊は飯高檀林を開檀する。
<中村壇林(日本寺)>
・1319年(元応元年)法華経寺(千葉県市川市)・日祐は千葉胤貞より、土地の寄進を受け、高祐山東福寺を建立する。
・1591年(天正19年)高祐山東福寺は名称を正東山日本寺と改称する。
・1599年(慶長4年)妙福寺・日円は中村檀林を開檀する。
・1630年(寛永7年)身池対論に中村檀林から日充が臨む。

日蓮は1222年安房国に生まれ、1282年武蔵国で没している。
京都の他の宗派(天台宗など)の中にも教えが広まり、1574年教蔵院日生が京都洛北に松ヶ崎壇林が開かれた。
この日生が東国に招かれて、すでにできていた飯塚壇林を妙福寺に移し(1580年)飯高壇林の基礎が固まった。

一方の中村壇林はこの妙福寺の中から日円がわかれて日本寺の中に中村壇林を開檀した。
これが1599年ということなので、世の中は天下分け目の関ヶ原の戦いの前の年になる。

常陸の大掾氏が滅びたのは1590年なのでこの頃までは群雄割拠でそれぞれの場所で混乱があったはずである。

どういう理由で2つに(飯高・中村)分かれたのかはよくわからないが、飯高壇林は家康から1591年に朱印地30石を与えられ大きく発展したようだ。

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さてこちらの日本寺(中村壇林)もたくさんの学坊を持ち、多くの学僧がいたという。多い時には1000人近くにもなったと言う。

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今でもここは多くの子供たちなどが合宿などで訪れているようだ。
見学に行ったときにも本堂に多くの子供たちがいた。

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「この二匹の獏は壇林時代十八間四面の講堂玄関の柱に掛かっていた貴重な遺物であり・・・・」

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さて、この日本寺の境内に「妙見宮と2つの稲荷神社」がある。
上の写真は妙見宮の右手の「岡田稲荷」

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こちらが「妙見七面宮」です。千葉氏の守護神を祀っています。

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こちらが左側の「豊田稲荷」です。

2つの稲荷神社はその由緒は良く分からないが、夫婦稲荷として商売繁盛・夫婦円満などとして信仰されてきたようです。

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最後に境内のアジサイを載せておきます。
最近はこの寺も紫陽花寺として知られてきたのかもしれません。

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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/16 19:38
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