小石川播磨屋敷
一昨日に常陸府中藩の陣屋門の話を書きましたので、常陸府中藩の江戸上屋敷を紹介しましょう。
江戸では常陸府中藩主松平氏は一般的には「播磨守」でしたので「ハリマ様」と呼ばれていました。
もともとこの松平2万石は水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男の松平頼隆(徳川光圀の弟)がこの府中藩をもらって治め始めた(その前に六郷家、皆川家が藩主としていましたが皆川家には嗣子がなく改易となり、しばらく空いていた)わけですが、水戸の殿様の子供ですからこの石岡などにはほとんど来ず、江戸の屋敷にほとんどいたようです。
上屋敷は江戸城の周りに多いのですが、少し遅れての藩でもあり水戸の殿様の「後楽園」に近い小石川にこの播磨屋敷がありました。

そこで、この屋敷の場所を探すと小石川植物園(江戸時代の地図では小石川御菜園)の少し南西方向の茗荷谷駅方面に少し行ったところに「播磨坂」という桜の名所があります。
この播磨坂の道路は後から作られたものですので、播磨坂の信号のあたり全体がお屋敷だったようです。
いまはここにマンションが建っています。
水戸藩は後楽園、小石川後楽園あたりですので水戸藩邸の北西部になります。

東京は昔の古地図が充実していますね。今ではほとんど見ることが出来ます。
上の地図には「播磨屋敷(松平播磨守)」と書かれています。
もう少し詳細な藩邸のまわりの家々の名前もわかります。
地図の「ハリマ」屋敷周辺を見て行けばこのの藩医であった手塚治虫の先祖である「手塚良庵」の名前があるはずです。
江戸の古地図は随分充実していると前に思っていて、切絵図などがあるのは知っていたのですが、今ではこれをネットで自由に見ることが出来るようになっていました。
goo古地図(江戸切絵図:13伝通院茗荷谷駅付近 → こちら
この地図は昔の地図をきれいに造り直したようです。拡大して人の名前もみな読むことが出来ます。
播磨屋敷の東南東側に「手塚良仙」という名前があります。
これが手塚治虫の先祖の家です。 常陸府中藩の藩医をしていたのです。
良仙(又は良庵)の名前は世襲です。
さて、この松平家は明治以降どうなったのでしょうか。
しばらくここに広大な屋敷に住んでいたようです。
明治維新当時は十代 松平 頼策までは播磨守でした。
廃藩置県で石岡藩の藩知事となり、その後子爵となったそうです。
しかし、その次の代の松平頼孝は鳥類研究に没頭し日本に住むすべての鳥の剝製を集めたたりしとうとう破産して屋敷を売却してしまいました(大正15年)。
昭和になり、この屋敷跡の真中を分断するように播磨坂の通りが整備され、桜の木が植えられて今では桜の名所となりました。
こんなことも、縁のあった石岡の人も知っていても良いのですが、こちらで聞いたことはありません。
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江戸では常陸府中藩主松平氏は一般的には「播磨守」でしたので「ハリマ様」と呼ばれていました。
もともとこの松平2万石は水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男の松平頼隆(徳川光圀の弟)がこの府中藩をもらって治め始めた(その前に六郷家、皆川家が藩主としていましたが皆川家には嗣子がなく改易となり、しばらく空いていた)わけですが、水戸の殿様の子供ですからこの石岡などにはほとんど来ず、江戸の屋敷にほとんどいたようです。
上屋敷は江戸城の周りに多いのですが、少し遅れての藩でもあり水戸の殿様の「後楽園」に近い小石川にこの播磨屋敷がありました。

そこで、この屋敷の場所を探すと小石川植物園(江戸時代の地図では小石川御菜園)の少し南西方向の茗荷谷駅方面に少し行ったところに「播磨坂」という桜の名所があります。
この播磨坂の道路は後から作られたものですので、播磨坂の信号のあたり全体がお屋敷だったようです。
いまはここにマンションが建っています。
水戸藩は後楽園、小石川後楽園あたりですので水戸藩邸の北西部になります。

東京は昔の古地図が充実していますね。今ではほとんど見ることが出来ます。
上の地図には「播磨屋敷(松平播磨守)」と書かれています。
もう少し詳細な藩邸のまわりの家々の名前もわかります。
地図の「ハリマ」屋敷周辺を見て行けばこのの藩医であった手塚治虫の先祖である「手塚良庵」の名前があるはずです。
江戸の古地図は随分充実していると前に思っていて、切絵図などがあるのは知っていたのですが、今ではこれをネットで自由に見ることが出来るようになっていました。
goo古地図(江戸切絵図:13伝通院茗荷谷駅付近 → こちら
この地図は昔の地図をきれいに造り直したようです。拡大して人の名前もみな読むことが出来ます。
播磨屋敷の東南東側に「手塚良仙」という名前があります。
これが手塚治虫の先祖の家です。 常陸府中藩の藩医をしていたのです。
良仙(又は良庵)の名前は世襲です。
さて、この松平家は明治以降どうなったのでしょうか。
しばらくここに広大な屋敷に住んでいたようです。
明治維新当時は十代 松平 頼策までは播磨守でした。
廃藩置県で石岡藩の藩知事となり、その後子爵となったそうです。
しかし、その次の代の松平頼孝は鳥類研究に没頭し日本に住むすべての鳥の剝製を集めたたりしとうとう破産して屋敷を売却してしまいました(大正15年)。
昭和になり、この屋敷跡の真中を分断するように播磨坂の通りが整備され、桜の木が植えられて今では桜の名所となりました。
こんなことも、縁のあった石岡の人も知っていても良いのですが、こちらで聞いたことはありません。


勉強になりました。
宍戸松平もその辺なのでしょうか。今度調べてみたくなりました。
松平氏のことは照光寺に鳥居付きの墓所があることしか知りませんでした。また知っても関心が湧かないのは、石岡に住まずいくさのような華々しい事も無かったったからと思います。
東京の古地図NETで見られるんですね。地図を見るのは好きです。明治のころは山手線の内側の半分ぐらいのところに全て集まっており‘東京市’と呼ぶのがぴったりですね。
以外によく分からないですよね。前から気になっていて調べてはいたのですが江戸地図がかなり整備されてきてわかりやすくなりました。
> 宍戸松平もその辺なのでしょうか。今度調べてみたくなりました。
常陸宍戸藩松平氏上屋敷は白金台で椿山荘の北だそうです。
今は大きな教会があるようです。
宍戸松平氏も天狗党に味方したのでここも天狗党の関係者が出入りしていたのだとか・・・
調べると結構面白いですね。是非詳しく調べて見て下さい。
まあ石岡住民もほとんど興味もないし知らないことだらけ。
正確に知らないのに「国香」とか「手塚治虫」の話だとかばかり・・・。
まあしょうがないですが、ある程度は伝えていかなければならないですね。
> 東京の古地図NETで見られるんですね。地図を見るのは好きです。明治のころは山手線の内側の半分ぐらいのところに全て集まっており‘東京市’と呼ぶのがぴったりですね。
1~2年ほど前に調べていた時は時々古地図が表示されていて面白いと思ったのですが、今ではこうして復刻されて電子版でいつでも見られる。古地図を手にして町歩きも流行っているとか・・・・
王道ではなくマニアックな場所などを調べて見たい気はします。
前に調べていて分かったのですが、東京とこちらの地元とはかなり意識差がありますね。
播磨様と呼ばれていたのが常陸府中藩の松平氏ですから。
江戸時代もきっとそんなイメージだったんだろうと思います。
まあ縁もゆかりもあるということで出かけた時は思い出してください。
では。また。