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逢善寺(2)

 稲敷市小野(旧新利根町)にある天台宗の古寺「逢善寺(ほうぜんじ)」の記事の続きです。

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昨日少し書きましたが、FloodMapsで海面を+5mした地図で場所を確認してみましょう。
下が下総台地で利根川が流れています。
そして北側の台地が信太郡(常陸國)です。

この中間にあるのが今回紹介している「逢善寺」のある半島のような台地で、その先端はクジラのように口を開け、浮島を飲み込むような独特の形をしています。

クジラの頭状の場所には全国の大杉神社の総本山であるアンバ様、こと「大杉神社」(天狗の神社)があります。

また小野川の対岸には「江戸崎」がありますが、ここには天台宗の「不動院」がありこれも大きな壇林で「関東八壇林」の一つです。
徳川家康に認められた天海僧正がここにいたことはあまり知られていません。(天海は会津から来て、ここにしばらくいましたが川越喜多院に移りました)

この逢善寺の存在を知るまでこの逢善寺あたりには特に何もないと思っていましたので、こんな立派な寺があったのは意外でした。

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本堂。

Wikipediaより
「「小野の観音様」の別称で信仰されている。女人救済寺でもある。常陸国司小野篁が勅命により覚叡上人を召して当地に寺院を建立する運びとなった。中世以降度々の火災によって本堂が消失したが、寄進などによってその都度再建されている。江戸時代には幕府より朱印地三百石を拝され関東八檀林の一つに列せられた。末寺として来迎院がある。」

ここには常陸国司小野篁(たかむら)が勅命により・・・となっていますが、小野篁が常陸国の国司としてここにきたかどうかははっきりしません。
篁(たかむら)は延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は815年に陸奥守となった父(岑守)について陸奥へ行っており、またその後西暦840年代に陸奥守をつとめたともいわれています。
かなりの反骨精神もあり、一時隠岐に流罪となったが許されてその才能は大いに発揮され、後々までいろいろと各地で語り継がれていくようです。

しかし、承和元年(834年)に遣唐副使に任じられたが船の破損などで遣唐大使と反目して唐には行っていません。
いずれにせよその後の小町伝説と同じように各地に伝説めいた話も残されていて何処までこの地に関係があったかは不明です。

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天長3年(828)、最澄の弟子である「逢善」が千手観音を本尊として創建し、淳和天皇の勅願寺として発展した。

その後江戸時代には正徳3年(1713)に天台宗の関東八檀林の一つに定められ、多くの学僧がここで学んだ。

逢善寺は2度の火災に遭い、現在の本堂は天保13年(1842)に再建されたものだという。それにしても大きな本堂である。
茨城県指定の文化財に指定されている。

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龍の彫刻も見事な出来だ。迫力がある。

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やはり家康から朱印300石を与えられたと言うのはかなり重要な寺だったのでしょう。

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ここを訪れるのは少し道が入り組んでいたりしますが、茨城百景にも選ばれている景勝地ですので一度訪れて見ても良いと思います。

明日にもう少し記事は続きます。

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阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/28 19:55
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