残された物
石岡小学校の校庭に残こされている懐かしいものを紹介します。
ここは奈良時代には常陸国の国衙が置かれ、そののち南北朝時代の正平年間(1346~51)に吉田大掾詮国(だいじょうあきくに)が難攻不落とも言われた府中城を築いて1590年に佐竹氏に滅ぼされるまで大掾氏の居城があった場所です。
小学校の敷地内には市の民俗資料館のほか、今修理移転中の陣屋門や国府跡の碑などが置かれています。
城跡を偲ぶ土塁跡などが特に目を引くものがあります。
小学校は市民会館が建てられる前までは陣屋門をくぐっておおきな高台(土塁跡)のケヤキの木「常陸のみやこ 一千有余年之地」を横に見て登校していたのでしょう。
この「常陸のみやこ 一千有余年之地」の碑の場所には戦時中まで教育勅語や天皇陛下のお写真などを納めた「奉安殿」という石蔵?が置かれ、一礼をして登下校していたものと思います。
そしてその頃は都会からたくさんの疎開の子供たちがいて、学校は今の何倍にも膨れていたと言います。

さて、その頃から戦後しばらくの間中庭(?)に置かれていた二宮尊徳像がいま校庭の片隅の大きな木の下に置かれています。
学校の中庭には「なかよし」という男女の子供の像が置かれています。(昭和50年?卒業記念品)

もう一つ昔のままに取り残されたコンクリート製のすべり台が残っています。
何時まで残されているかわかりませんのでこうして写真に収めてきました。
右側に「オスナ」左に「ニコく」。
オスナは押すな?、ニコヽはニコニコですね。
子供の頃に「ニコく」と書いてあるので「にこく」ってなんだろうなんて思ったりしたでしょうね。

今は懐かしい故郷を偲ぶ思い出の品です。卒業生にとっては懐かしい思い出だと思います。
出来るだけこれからも大切に残して「残されし物」を「残せし物」として保存していってほしいものです。
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ここは奈良時代には常陸国の国衙が置かれ、そののち南北朝時代の正平年間(1346~51)に吉田大掾詮国(だいじょうあきくに)が難攻不落とも言われた府中城を築いて1590年に佐竹氏に滅ぼされるまで大掾氏の居城があった場所です。
小学校の敷地内には市の民俗資料館のほか、今修理移転中の陣屋門や国府跡の碑などが置かれています。
城跡を偲ぶ土塁跡などが特に目を引くものがあります。
小学校は市民会館が建てられる前までは陣屋門をくぐっておおきな高台(土塁跡)のケヤキの木「常陸のみやこ 一千有余年之地」を横に見て登校していたのでしょう。
この「常陸のみやこ 一千有余年之地」の碑の場所には戦時中まで教育勅語や天皇陛下のお写真などを納めた「奉安殿」という石蔵?が置かれ、一礼をして登下校していたものと思います。
そしてその頃は都会からたくさんの疎開の子供たちがいて、学校は今の何倍にも膨れていたと言います。

さて、その頃から戦後しばらくの間中庭(?)に置かれていた二宮尊徳像がいま校庭の片隅の大きな木の下に置かれています。
学校の中庭には「なかよし」という男女の子供の像が置かれています。(昭和50年?卒業記念品)

もう一つ昔のままに取り残されたコンクリート製のすべり台が残っています。
何時まで残されているかわかりませんのでこうして写真に収めてきました。
右側に「オスナ」左に「ニコく」。
オスナは押すな?、ニコヽはニコニコですね。
子供の頃に「ニコく」と書いてあるので「にこく」ってなんだろうなんて思ったりしたでしょうね。

今は懐かしい故郷を偲ぶ思い出の品です。卒業生にとっては懐かしい思い出だと思います。
出来るだけこれからも大切に残して「残されし物」を「残せし物」として保存していってほしいものです。


石岡小学校の校舎の建物も位置も変化しましたが、昔から変わらないものが変わらない場所にあるのを見ると、往時のひとたちの心意気というか魂を感じます。
この場所に校舎が新築された1910年には男子部と女子部に分かれ校長は別だったそうです。ただしインフラは高価だからでしょう、校舎は一緒。当時から貧困家庭の子も就学出来るよう支援があったとか、また校舎の一部には大人用の石岡図書館があったそうで、昔から日本人の教育教養にかける熱意を見る思いです。それを思い起こすのがいまや‘遺跡’にちかい残された物です。
確かに当時の人たちの思いが伝わってきますね。
私はここに暮らしていたわけではないのであまり気がつきませんでしたが、
教えていただき写真に残せてよかったと思います。
学校内に図書館と言うのは今の石岡市立図書館の前身ですよね。
この図書館は記念すべき図書館ですね。
茨城県で最も古い図書館だと聞いています。
これも当時の人の気骨が伝わってきます。
明治22年に手塚校長が私設図書館を校長室に開いた・・・・。
すごいことです。